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2019-04-09

迅速すぎる「中国大返し」

秀吉と毛利が備中高松城で対峙中、毛利方が和睦条件の中で難色を示したのが高松城主清水宗治の切腹であった。毛利に味方した人物を死に追い込むことを毛利氏は嫌った。

安国寺恵瓊は天正10年6月4日水攻めで孤立した高松城に乗り込み清水宗治を説得して切腹させたが、これは毛利氏の承諾を得ずに恵瓊の一存で行なったことであった。

秀吉と恵瓊は共謀してすでに和睦の基本合意をしていてあるタイミングを計っていたとも言えます。恵瓊はそもそも毛利氏に滅ぼされた安芸武田氏の遺児であったし、翌年には秀吉の直臣となっている。つまりは毛利への忠誠心がなかったとも言えます。

そして秀吉も光秀同様、信長の長期政権構想(つまり信長の子孫に政権を引き継がせ長期織田政権を保つ)に不安を抱いており、いずれは近江長浜城を奪われ遠国に移封され、やがては明にまで派遣されることを予想し、それを覆す機会をうかがっていたであろうことが考えられます。

秀吉は、光秀と結びついた長宗我部元親と対立する三好康長に肩入れし、光秀を窮地に立たせ光秀がどう動くか注視していた。いわば光秀の決起を待っていた。

そして本能寺の変の報を聴くや一気に和睦を成立させ、有名な「中国大返し」の神業を成し遂げた。

参考文献は今回も明智氏の前掲書です。