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2020-01-21

陳和卿

東大寺大仏は聖武天皇の発願により天平勝宝4年(752)に開眼供養が行われた。

その後治承4年(1180)、平重衡(清盛の五男)の南都焼き討ちにより大仏の腰から上が焼失(重衡は後に処刑された)。

翌年僧重源が大仏再興事業に着手し、寿永元年(1182)7月には宋の鋳物師(いもじ)陳和卿(ちんなけい)に命じて大仏鋳造を開始させた。

寿永2年(1183)2月には大仏の右手を鋳造、4~5月には頭部を鋳造、翌年(1184)1月には左手を鋳造。そして文治元年(1185)8月に大仏開眼供養。

続いて重源は大仏殿建立のための材木を求めて文治2年(1186)4月周防(山口県)に行く。建久元年(1190)10月大仏殿上棟式。

建久6年(1196)3月大仏殿供養。源頼朝が参列し馬千匹、米一万石、黄金千両、上絹千疋を奉納した。頼朝は大仏鋳造、大仏殿建立の責任者陳和卿に面会を申し入れるが、頼朝が対平家戦において多くの人命を断ったことの罪業深重なりとして陳和卿は面会を断った。これに対して頼朝は感涙に堪えず、奥州征伐の時の甲冑や鞍、金銀を贈るが、陳和卿は甲冑を釘にし鞍は東大寺に寄進、その他は頼朝に返した。

時は過ぎ10年後、元久3年(1206)東大寺は陳和卿の濫妨を提訴。後鳥羽院庁は、およそ陳和卿の作法驕漫増長、大仏鋳造時鋳型の中に土や瓦を入れ、大仏殿造営時にも柱を切り取り自分の唐船建造の材料にした、等々の判決を下した。

さらにその10年後、建保4年(1216)6月陳和卿は鎌倉に行き将軍実朝との面会を求めた。1週間後実朝と対面するや陳和卿は三回奉拝し号泣した。いぶかる実朝に対し「あなたの前世は宋の医王山の長老であり、私はその弟子でした」 この陳和卿の言葉は6年前に実朝が見た夢と同じ内容であり、夢のことを誰にも口外していなかったので実朝はこれを信じた。

同年11月実朝は医王山を訪れるための唐船建造を陳和卿に命じた。翌建保5(1217)4月17日由比ヶ浜で唐船の進水式を執り行い数百人が唐船を曳き海に浮かべようとするも遠浅の海岸であるため浮かばず失敗、船は砂浜で朽ちた。

参考資料 横内裕人 市民教養講座 実朝の渡宋計画

写真は姫路市木場 小赤壁の海岸