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貴族の変節でたどるフランス革命史
1754年最上層貴族の家系に生まれる。後にルイ18世に「君の家系は僕の家系と同じくらい古いね」と言われた。
1 1789年のフランス革命に「聖職者層」の代議員として参加したにもかかわらず「第三身分(市民層)」の反教会主義に同調し、カトリック教会の全財産没収を主張した。革命直前まで教会の既得権益を守るため奮闘していたのに、180度の転換であった。教会は全財産を没収された。
2 1792年、革命政府はルイ16世を処刑し、暴徒化したパリ民衆は貴族と王党派を無差別に虐殺し始めた。革命推進派であったはずの彼は革命政府に愛想をつかし、イギリスそしてアメリカに亡命した。
3 1794年、ロベスピエールの恐怖政治が終焉し、翌年、総裁政府が開始された。帰国した彼は外相のポストについたが、総裁政府の無能ぶりに見切りをつけ、当時イタリア戦線で華々しい戦果を挙げていた英雄ナポレオンに近づき、1799年ナポレオンの「ブリュメール18日」のクーデターに参加した。
4 1804年、ナポレオン帝政が開始され彼は外相を務めた。その後、外交・戦争政策でナポレオンと対立するようになった。ハプスブルク帝国、ロシア帝国、プロイセン帝国、大英帝国という当時の欧州四大帝国のすべてと長期戦争を続けるナポレオンは、ヨーロッパの敵としか思えなかった。
5 1813年ナポレオンのロシア遠征が大失敗となったことが明らかとなると、彼は「ブルボン正統主義」を提唱し、翌年5月ブルボン王朝が復活するとまたしても外相に就任した。
6 1815年には外相と首相を兼任したが、彼のこれまでの裏切りを忘れていなかったルイ18世の側近たちにより解雇された。失脚すると今度は「リベラルな反体制派」に再変身し、1830年の七月革命では反ブルボン派のルイ・フィリップを支持した。
このように裏切りと変節に満ちた彼の人生ではありますが、彼の政治思想は古典的な自由主義、立憲主義であったようです。シャルル・モーリス・ドゥ・タレーラン=ペリゴールが彼の姓名です。
参考文献は前回と同じ
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