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ジョン・フォン・ノイマン

1945年春、ノイマンはロスアラモス国立研究所からプリンストンの自宅に戻り12時間眠り続け、目を覚ますと妻に打ち明けた。
「今我々が造っているのは怪物で、それは歴史を変える力を持っている。科学者は科学的に可能なことはやり遂げなければならない。それがどんなに恐ろしいことだとしてもだ」
アメリカは原子爆弾の完成を急いでいた。なぜならドイツも原爆の研究に着手していたから。
1939年9月「核分裂のメカニズム」論が科学誌に掲載されると、10月にドイツ陸軍省は「原子爆弾開発計画」を決定。

1940年12月ドイツは原子炉を完成させた。

1942年6月ドイツ軍に呼ばれた科学者ハイゼンベルクは、通常の100万倍の威力を持つ爆弾を2年以内に開発できること、大都市を破壊するのに必要な原爆の大きさはパイナップル1個分であることを答弁した。

しかしその後ドイツの原子炉は制御不能となって大爆発を起こし、さらにノルウェーの重水タンクが破壊され、原子炉の制御に必要な重水の供給が不可能となり、ドイツの原爆開発は暗礁に乗り上げた。

アメリカが原子炉を完成させたのは1942年12月、ドイツより2年遅れていた。

ノイマンをはじめとするハンガリーのブダペストのギムナジウム出身のユダヤ系科学者たちは、ナチスのユダヤ人迫害政策が激化するヨーロッパからアメリカに逃れてきた。彼らは自分たちを受け入れてくれたアメリカのため、戦争を早期に終わらせるため、非人道的な兵器(そもそも兵器は非人道的ですが)の開発に邁進した。

似た状況が第一次大戦時にもあった。

第一次大戦で毒ガスを開発したフリッツ・ハーバーはユダヤ人であるがプロテスタントに改宗しドイツ軍に志願した。彼の妻は毒ガス使用に反対し拳銃自殺した。しかし彼はさらに毒性の強いガスを開発した。1933年ナチスはユダヤ人であるハーバーを公職から追放した。彼の開発した毒ガスはユダヤ人強制収容所で使用された。ハーバーもまた戦争を早期に終わらせるため、人命を救うため毒ガスを開発した。

参考文献=高橋昌一郎『フォン・ノイマンの哲学』