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強気なポーランド

 第一次世界大戦後のベルサイユ条約により、ポーランドにバルト海への出口を与えるため、ドイツ領の西プロイセンがポーランドに割譲された。これによりドイツ領東プロイセンは飛び地となった。

 西プロイセン(ポーランド回廊)には多数のドイツ人が居住しており、1939年ヒトラーはダンツィヒの返還とポーランド回廊への鉄道と高速道路の建設を求めたが、ポーランドは強気に出てドイツとの交渉をはねのけた。

 1939年9月1日にナチスはポーランドに侵攻するが、その直前には西プロイセンのドイツ系住民六万人がポーランド人に虐殺されていた。

 ポーランドが強気でいられたのは戦争になっても英仏両国から支援の約束を取り付けていたからであった。さらに米国のフランクリン・ルーズベルトも英仏側に立って参戦するとの意向を示していた。これは現在のゼレンスキーが欧米からロシアと妥協するなと圧力をかけられている状況と同じです。

 また米国は独ソ不可侵条約の秘密議定書の内容(独ソでポーランドを分割)を知りながらポーランドに伝えなかった。

 その後英仏は約束通りドイツに宣戦布告したものの、ポーランドに援軍は送らず、亡命政府をロンドンに受け入れただけであった。ヒトラーと組んだソ連が東側からポーランドに侵攻したことは黙認した。ポーランドはドイツ・ソ連・スロバキア・リトアニアの4か国に分割占領された。ポーランドは英仏米に騙された。ポーランドの指導者は愚かであった。

 ヒトラーは英国との和平を望んだが、チャーチルは交渉を拒否し、戦争を継続した。チャーチルが強気でいられたのはルーズベルトの米国が参戦してくれると信じていたからであった。ルーズベルトは武器貸与法を成立させ武器支援をしていたが、日本を石油禁輸で締め上げついに真珠湾攻撃をさせた。これで米国世論は大きく変わり参戦に踏み切れた。

 1943年のテヘラン会談でスターリンはルーズベルトに、ソ連国内の民主化を約束し、その見返りとしてポーランドに共産主義政権をつくることを認めさせた。スターリンにまんまとやられた。

 プーチンが侵攻に踏み込んだ理由もドンバス地方でのロシア系住民の虐殺であったし(ウクライナに不利な情報は一切報道されないが)、小国が大国の支援を頼りにするところも同じである。

参考文献=渡辺惣樹・福井義高 『「正義の戦争」は噓だらけ』

画像=京都 大原 宝泉院