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対米追随の原点

 1951年9月8日サンフランシスコのオペラハウスで日本は48か国の代表と講和条約を結んだ。同日、日米安保条約も締結された。アメリカ側のアチソン国務長官他4名に対し日本は吉田茂首相ただ一人であった。しかも場所はサンフランシスコ郊外の米軍基地の下士官クラブであり、首相と日本国民に敗戦国としての身の程を知らせる意味もあったと思われる。
 そして米軍の日本駐留に関しては安保条約にはなんの記述もなく、国会の審議の必要のない行政協定に入れられた。
 この行政協定に「米国は駐留を希望する基地について、講和発効後90日以内に日本側と協議し日本側の同意を得なければならない。ただし90日以内に協議が整わなければ、整うまで暫定的にその基地に留まってよい」という箇所があった。
 当時サンフランシスコ講和会議に全権随員として参加していた宮澤喜一元首相はこれについて「これでは講和条約を結んで独立する意味がない」として外務省に削除を申し入れた。
 するとこの規定は行政協定からは削られたが、国務大臣岡崎勝男とラスク国務次官補の名が入った「岡崎・ラスク交換公文」の中にそのまま残された。
 米国は望むだけの軍隊を望む場所に望む期間、駐留させる権利を確保したい。しかし日米安保条約には書けない。そこで行政協定に入れた。しかし宮澤などの目にとまって都合が悪くなると誰も見ない「交換公文」に書き込んだ。
 交換公文は国家間の合意文書であり、公に発表はしないが効力は同じ。岡崎は行政協定締結の直後、外務大臣に昇進した。戦後の日本外交の極端な対米追随姿勢は吉田首相と岡崎国務大臣によって決められた。

 参考文献=孫崎亨『戦後史の正体』