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本能寺の変続き

前回の記事の中で若干の修正をしたい箇所が出てきました。

四国政策に関してですが、天正九年の段階で信長は紀州惣国一揆と結びついていた長宗我部から当時阿波を支配していた三好氏に乗り換えたと見られることがわかりました。

これは甥の秀次を三好康長の養子としていた羽柴秀吉の働きかけによるところが大きい。

さらに斎藤利三の妹が長宗我部元親の正室であったため、四国攻撃軍の出陣の前に変を起こしたとも考えられます。

徳川家康謀殺陰謀説に関しては本能寺の変当日明智軍の兵卒は京市中への軍事行動の目的を知らず、信長の命令に基づいて家康を殺すのであろうと考えた、とフロイス『日本史』に書かれています。

しかし本能寺の変はどうしても反革命でありクーデターであることは否めない。

ではそもそも織田信長の革命とはどういう意義を持っていたのか、それを挫いた本能寺の変はどういう勢力を代表していたのか、その辺りはまた次回以降に。