といわれてもすぐにはピンと来ないかもですが、源頼朝の長男、鎌倉幕府第二代将軍です。この人は『吾妻鏡』ではわがまま勝手しほうだいで無能故に自滅したように書かれているが、その真偽は?
たとえばご恩と奉公という武士の契約の基礎である土地の裁判で、現地調査をせず図面の中央に線を引き、土地の広い狭いは運次第、異論あれば裁判禁止と暴言。
しかし他の史料でちゃんと現地調査したことがわかっている。
他にも頼家をおとしめる記述には事欠かないわけですが、むしろ京都の建仁寺の建立を支援したり臨済宗の高僧栄西を鎌倉に招いたりと評価すべきことも行っている。
歴史は勝者がつくるといわれますが勝者北条氏に都合よく書かれている。
先月近江八幡に行った際、「豊臣秀次」という名前の日本酒を見つけ、また運河「八幡堀」が秀次の時代に造られその後の近江商人活躍の基礎を作ったことから秀次が近江八幡発展の恩人という扱いをされているのを知り大変驚いたことがありましたが、歴史上の敗者が必ずしも無能とは限らない。
また先日丹波の亀岡に行った際は亀山城址近くの南郷公園に今年明智光秀像が建てられているのを発見。謀叛人という足かせはあるものの軍事に秀でるだけでなく文化人としての教養も兼ね備える人物として称えられている。毎年5月には光秀まつりも行われているそうです。
写真は松尾神社(東近江市)