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2025-01-02

翼よ あれが巴里の灯だ

 チャールズ・リンドバーグは1902年デトロイトに生まれ、ウィスコンシン大学工学部に入学したが、航空機に魅せられ航空会社の操縦訓練生に応募、さらに陸軍航空隊に入隊した。飛行訓練学校を首席で卒業し、航空会社に就職、セントルイス・シカゴ間の航空郵便に従事した。

 1919年ニューヨークのホテル王オルテイグがニューヨーク・パリ間のノンストップ飛行成功者に2万5千ドルの賞金を出すと宣言したが、成功した者はいなかった。

 リンドバーグは大西洋横断に耐える特別機の製作を航空会社に依頼、出来上がった航空機を「スピリット・オブ・セントルイス号」と名付けた。

 1927年5月20日ニューヨーク近郊のルーズベルト空港を離陸し、33時間半後パリのル・ブーゲ飛行場に着陸した。ブーゲ飛行場では数千人が出迎えた。仏大統領はレジオンドール勲章を授与し、リンドバーグは一躍世界の英雄となった。

 ユダヤ系富豪グッゲンハイムは航空機による旅をアメリカ国民に啓蒙したいと考え、リンドバーグの全米飛行ツアーを企画、リンドバーグはスピリット・オブ・セントルイス号で全米49州92都市を訪問し各地で市民の熱狂的な歓迎を受けた。20代半ばで知的な風貌を持つリンドバーグは国民的アイドルとなった。

 1932年3月、リンドバーグの20カ月の長男が誘拐される事件が起きた。結局長男は殺害され犯人は死刑となったが、次男誕生後もマスコミの注目は続き、1935年リンドバーグは米国を脱出しイギリス・ケント州に移住した。

 駐ドイツ米国大使館付武官トルーマン・スミス大佐はリンドバーグを利用してナチスドイツの空軍に関する情報を得ようと考え、ドイツ政府にリンドバーグをベルリンオリンピックに招待するよう促した。

 招待されたリンドバーグをナチス軍部ナンバー2(空軍トップ)のヘルマン・ゲーリングは熱烈に歓迎した。航空機に携わる同好の士というだけでなく、ゲーリングの妻がリンドバーグと同じスウェーデン系ということも大きかった。ナチスにとってスウェーデン人はドイツ人同様最高レベルの人種であった。ベルリンの空港で爆撃機の操縦を許されたり航空機製造工場で最新の戦闘機の製造状況を視察できた。リンドバーグは友人への手紙でドイツの航空機生産能力がヨーロッパトップであることを伝えた。その後1938年までに5回ドイツを訪問した。1938年10月リンドバーグはゲーリングからイーグル勲章を授与された。

 1939年、ダンツィヒ返還をめぐってドイツとポーランドが対立した。英仏はポーランド支援を表明した。4月リンドバーグはアメリカに帰国した。

 1940年10月エール大学の学生らが「アメリカ第一主義委員会」を立ち上げた。アメリカ第一主義運動は第一次世界大戦後のベルサイユ体制への不信から始まったものであった。「1917年に我々は騙された。ベルギーとフランスを救えとウィルソン大統領に促され出兵した。結果5万人以上の若者が命を失った。アメリカは同盟国に多くの借款を与えたが返還されていない。ドイツに民主主義国を作ったがヒトラーが生まれた。ヨーロッパは紛争ばかり起こす。我々は自国の防衛に専念すればよい」。アメリカ第一主義委員会は全米に450の支部を持ち会員は80万人を数えた。

 アメリカ第一主義委員会はリンドバーグに支援を訴え、会員になったリンドバーグは1941年5月ニューヨーク・マディソンスクエアガーデンで2万人に演説した。当時米国世論は80%がヨーロッパの戦争への非干渉の立場であった。

 しかしフランクリンデラノルーズベルト大統領は参戦を希望していた。ニューディール政策は成果を上げられず失業者数は大して減少していなかった。参戦による戦争需要しかないと考えていた。

 非干渉の国民世論の形成にリンドバーグが大きな役割を果たしていると考えた干渉主義勢力は「リンドバーグはナチス」キャンペーンを始めた。

 1941年10月27日の演説でルーズベルト大統領は「ヒトラーがやってくる」キャンペーンを行った。ナチスの野望はアメリカ大陸を属国として支配し宗教を禁止しヒトラーを神としてあがめさせるといった荒唐無稽なもので、国民の恐怖心をあおった。

 1911年から17年までカリフォルニア州知事であったハイラム・ジョンソン上院議員は1924年の排日移民法成立に中心的な役割を果たした。知事時代にも日本人移民差別政策を推進していた。そのジョンソン議員がアメリカ第一主義委員会の会員であった。

 ここにFDR政権は目を付けた。アメリカ第一主義運動は対ヨーロッパ外交には関心を持つが対日外交には無関心であった。FDR政権は対日交渉の実情を国民から隠した。近衛首相の首脳会談要請を隠しハルノートを通告したことも隠した。

 真珠湾攻撃の報はアメリカ第一主義委員会には寝耳に水であった。あれだけ高まっていた非干渉の運動が跡形もなくなった。リンドバーグはもはや非干渉の立場ではいられず、太平洋方面で戦うパイロットの訓練にあたった。1974年72歳で亡くなった。

参考文献=渡辺惣樹『日米戦争を望んだのは誰か』

画像=高源寺庭園(丹波市)

 

 



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