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ブログ

2019-04-17

処世術の神

細川藤孝は初め足利義輝に仕え、義輝亡きあとは義輝の弟、後の義昭に仕え各地の大名を頼り流浪したが、信長という有力大名に出会い義昭は将軍になった。

義昭と信長が対立すると義昭の逆心を信長に密告し信長の家臣となった。

信長の家中においてはかつて自分の部下であった光秀の与力という立場であった。嫡男忠興の妻は光秀の娘玉であり光秀とは親戚関係でもあった。

本能寺の変に際しては光秀の再三の援軍要請を断り剃髪して隠居した。

その後天下を手中にした秀吉は藤孝に光秀の丹波を与え十一万石に加増した。このことから藤孝が秀吉に格別の貢献をしたことが推定される。

秀吉亡きあとは家康につき、関ヶ原では忠興は家康方として前線で石田三成と戦い、戦後豊前小倉藩三十九万九千石の大封を得た。

寛永九年忠興の子忠利は肥後熊本五十四万石に加増、移封された。

以後明治の廃藩置県まで細川家は藩主として存続した。

戦国乱世を生き抜いた世渡りの神。

2019-04-09

迅速すぎる「中国大返し」

秀吉と毛利が備中高松城で対峙中、毛利方が和睦条件の中で難色を示したのが高松城主清水宗治の切腹であった。毛利に味方した人物を死に追い込むことを毛利氏は嫌った。

安国寺恵瓊は天正10年6月4日水攻めで孤立した高松城に乗り込み清水宗治を説得して切腹させたが、これは毛利氏の承諾を得ずに恵瓊の一存で行なったことであった。

秀吉と恵瓊は共謀してすでに和睦の基本合意をしていてあるタイミングを計っていたとも言えます。恵瓊はそもそも毛利氏に滅ぼされた安芸武田氏の遺児であったし、翌年には秀吉の直臣となっている。つまりは毛利への忠誠心がなかったとも言えます。

そして秀吉も光秀同様、信長の長期政権構想(つまり信長の子孫に政権を引き継がせ長期織田政権を保つ)に不安を抱いており、いずれは近江長浜城を奪われ遠国に移封され、やがては明にまで派遣されることを予想し、それを覆す機会をうかがっていたであろうことが考えられます。

秀吉は、光秀と結びついた長宗我部元親と対立する三好康長に肩入れし、光秀を窮地に立たせ光秀がどう動くか注視していた。いわば光秀の決起を待っていた。

そして本能寺の変の報を聴くや一気に和睦を成立させ、有名な「中国大返し」の神業を成し遂げた。

参考文献は今回も明智氏の前掲書です。

2019-03-17

老獪な動き

先日訪れた『信長の館』には信長が家康一行をもてなした、安土御献立復元レプリカが展示されていましたが、天正10年5月15日、家康は重臣を引き連れて安土城を訪問している。

対武田勝頼戦の勝利を祝い労をねぎらうという建前はあるものの、三河を離れ信長の領地に深入りすることの危険性を承知で、なぜ信長の命令に従い少人数で安土を訪れたのか?

それは家康と光秀との密約、光秀が信長の命令に従って家康を討つと見せかけて信長を討つ、という密約があったと考えるとすべて辻褄が合う。

家康のそれまでの、老獪な動きを見ていきましょう。

天正9年9月伊賀惣国一揆が壊滅。この時伊賀から三河に逃げた者を家康が領内にかくまう。

天正10年3月の武田滅亡の際も甲斐、信濃からの脱出者を領内にかくまい、本能寺の変後その者らを甲斐、信濃に送り込んで武田旧臣が徳川方に付くよう活動させている。

そして本能寺の変後「神君伊賀越え」と称し苦労して命からがら三河に帰りついたことになっているが、伊賀越えには伊賀者190人が護衛した。これは前年に恩を受けた伊賀のお礼と考えられます。

本能寺の変後、密約の相手光秀を援助するため軍を出すかというとなかなか軍は西へは出さず、変後直ちに甲斐、信濃の織田軍の切り崩しに専念し、まんまと甲斐、信濃を手に入れる。

やっと西へ軍を出したのは6月14日。すでに13日に光秀は山崎の合戦で敗北していた。

ではすんなり兵を退くかと思いきや、さらに軍を進め秀吉軍から兵を退くよう注意されようやく軍を引き返させた。

もし家康が変後速やかに光秀に援軍を送っていれば、山崎の合戦は違った結果になっていたかもしれない。そして明智徳川連合政権が成立していた可能性もなきにしもあらず。

前回の投稿で御幸の間と書いたのは御帳の間の間違いです、訂正させていただきます。また前々回の参考文献は、安部龍太郎『信長はなぜ葬られたのか』、今回の参考文献は明智憲三郎『完全版本能寺の変431年目の真実』です。ありがとうございました。

2019-03-10

安土城跡

念願の安土城に行って来ました。

残っているのは、石段、石垣、礎石ですが。

本丸跡の現状は、このような樹林公園といった趣きです。

御幸の間があったとおぼしき地点から天主方向を見てもこんな感じ

史跡の整備保存がいかに大変かを思い知らされました。

2019-02-14

僭上の極み

安土城の発掘調査を進める滋賀県安土城郭調査研究所は、2000年2月に安土城本丸跡の礎石配置が内裏の清涼殿に酷似していると発表しました。

これは天皇を迎えて天下に威信を示し、さらに城内への天皇の移住まで視野に入れていたと考えられています。

実際、信長は正親町天皇の皇太子誠仁(さねひと)親王の第五皇子(第六皇子は桂離宮で有名な八条の宮智仁親王)を猶子としており、この五の宮を天皇に即位させれば信長は名目上太上天皇となり、朝廷を意のままにできる。朝廷を支配下に置こうという野心を持っていた可能性は高い。

さらに安土城の「清涼殿」の間取りが内裏の清涼殿の間取りとは東西が逆になっている点が重大な問題です。

清涼殿の間取りは古式によって厳しく定められており変更は許されない。しかし信長は儀式を行なう御帳の間を東庭に面して配されるべきところを西に配置した。

なぜか? 答えは、信長が居住する天主閣が西側にあるからである。御帳の間を古式を無視して自分の方に向けさせ、天主閣から見下ろす形にしたのであった。

このあたりの究極の僭上が身を滅ぼすもとになったのでは?

2019-01-17

洛中洛外図屏風

織田信長が上杉謙信に贈ったとされる『上杉本洛中洛外図屏風』に関して記します。

もともと『上杉本洛中洛外図屏風』は室町幕府第13代将軍足利義輝が盟友上杉謙信に贈るために狩野永徳に命じて制作させたものであった。義輝の意図は関東管領に就任した謙信に早く上洛して将軍を補佐せよということであった。

永徳が制作を始めたのが永祿7年(1564)末か8年初め。

しかし義輝は永祿8年5月に松永久秀に襲撃され横死する。

永徳は制作を続け義輝の百箇日の2日後9月3日に完成させた。永徳としては信長が新たな支配者になりつつあるのを見定め信長に献上したと思われます。

信長が謙信に向けて洛中洛外図屏風を京都から搬送させたのが天正元年(1573)の年末か翌2年の年始。同年3月には越後春日山城に無事到着しています。

当時足利義昭が武田勝頼、上杉謙信との軍事同盟締結により信長包囲網を結成することを企んでおり、信長としてはこれに対抗するため、友好関係にあった謙信の離反を防ぎたかったというのがこの屏風贈与の意図と思われます。天才絵師狩野永徳の洛中洛外図屏風のたどった数奇な運命といえます。(参考文献 藤田達生『本能寺の変の群像』)

2018-12-16

本能寺の変続き

前回の記事の中で若干の修正をしたい箇所が出てきました。

四国政策に関してですが、天正九年の段階で信長は紀州惣国一揆と結びついていた長宗我部から当時阿波を支配していた三好氏に乗り換えたと見られることがわかりました。

これは甥の秀次を三好康長の養子としていた羽柴秀吉の働きかけによるところが大きい。

さらに斎藤利三の妹が長宗我部元親の正室であったため、四国攻撃軍の出陣の前に変を起こしたとも考えられます。

徳川家康謀殺陰謀説に関しては本能寺の変当日明智軍の兵卒は京市中への軍事行動の目的を知らず、信長の命令に基づいて家康を殺すのであろうと考えた、とフロイス『日本史』に書かれています。

しかし本能寺の変はどうしても反革命でありクーデターであることは否めない。

ではそもそも織田信長の革命とはどういう意義を持っていたのか、それを挫いた本能寺の変はどういう勢力を代表していたのか、その辺りはまた次回以降に。

2018-11-11

桔梗の旗揚げ

歴史の世界では今まで通説とされてきたことが、新しく発見された史料により覆されることがしばしば起こっていることはご承知の通りです。

垣根涼介『信長の原理』はフィクションとして考えることもできますが、最新の研究の成果を踏まえていると思われる、そういう新しい発見に満ちた小説です。

前回信玄と謙信に触れましたが、この小説のメインテーマはずばり本能寺の変です。

その原因あるいは要因、背景としてかなり新鮮な内容が書かれていましたのでここに取り上げさせていただきます。

要因その1

斎藤利三は以前美濃の稲葉一鉄に仕えていたが、一鉄と喧嘩別れし、それを明智光秀が引き抜いた。その後那波直治も稲葉家から明智家に移っている。一鉄にすれば明智家に二人も引き抜かれた。

一鉄は信長に直談判し二人を稲葉家に返すよう求めた。しかし斎藤利三はいまや明智家の筆頭家老で侍大将。光秀は当然拒否。そこで信長が下した命令は、なんと斎藤利三の切腹。

光秀はこれを利三に伝えることもできず悩みに悩む。

要因その2

四国に関して信長は長宗我部元親に切り取り次第とし寛容な態度を示し、光秀に長宗我部との取り次ぎ役を命じ斎藤利三は元親とは縁戚関係にあった。

しかし天正10年5月頃には態度を豹変させ織田信孝を総大将に四国討伐軍を編成し出撃を準備中であった。

長宗我部との取り次ぎ役である光秀はまさに面目丸つぶれであった。

要因3

天正10年5月信長は徳川家康を安土城に招待。

家康はさらに京、堺を見物する。

信長は光秀に堺で家康を謀殺せよと命令。しかし光秀は長年同盟を結んできた家康を殺せば人心は信長から離れるとして拒否。

この信長の用済みと判断した人間に対する冷酷過ぎる仕打ちにショックを受け、やがては自分も用済みとして切り捨てられると、これまでの佐久間信盛の追放や荒木村重の謀反など多数の実例に鑑み悲観的に考えた。

主にこの3つの要因が挙げられていましたが、明智軍の中核を占めるのは500年近くの歴史を誇る土岐氏の系統に属する美濃源氏。織田氏という尾張の出来星大名に征服されたものの桔梗紋のもとに強い結束力で尾張者に対抗心を燃やしていたとも言えます。

2018-10-16

上洛

ところで先日歴史小説を読んでいてまさに目から鱗が落ちるという思いがしたので、それを転載したいと思います。

信長に初めて謁見した明智光秀が信長に「武田信玄と上杉謙信に上洛の意思はあるか?」と問われ

「そもそもこのお二人に天下を志す明確なご意思があれば、過去の十年にわたり地味痩せた川中島を奪い合って五度も合戦をするなど、およそ考えられぬ愚行でございます」

「信玄公におかせられましては十五年以上も前に信濃の大部分を手中にしてございます。その時から上洛を第一義に考えておられれば、とうの昔に南信濃から隣国美濃へと侵略を開始されたはず。それをせずして北信の片田舎にこだわり続けられたは、上洛よりもまず一国一国ごとの領土拡大を優先して考えておられるからでございます。その領土が拡大を続けた結果上洛につながるような機運が訪れれば上洛してもよい。その程度の意欲でございましょう」

もし、上洛が戦国武将最大の目標とするならば、上洛という一点に絞って見るならば、信玄も謙信も極めて凡庸としか見えない。信長はその観点から見れば先が見えている、明確な目標を持っている。

この明確な目標というところが

造園にしてもなんの活動にしても生きて行く上で、一番の勘所だと今更ながら再認識しました。

2018-09-17

ハプスブルク家

写真はクロマツ移植後

ところで先日プラド美術館展に行き、フェリペ4世の狩猟服姿の肖像画に猟銃の長さを短く描き直した跡を発見し、王の権威を高めようとする作者ベラスケスの意図が見えてきました。

その後ミュージアムショップでハプスブルク家の歴史の本を買い、当時のスペインが太陽の没することのない帝国、つまり南北アメリカ大陸をはじめ世界中に植民地を持つ大帝国であったこと、当時のスペイン王朝がハプスブルク家の王朝であったことを知り、マリーアントワネットぐらいしか知らなかったハプスブルク家の650年にわたるヨーロッパ支配の歴史について興味をそそられました。

今年買った本のなかで最も面白い本となりました。