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彼は優柔不断で軍部の暴走を許したのではなく、むしろ彼が軍を煽った
明治24年(1891年)東京市に生まれる。明治37年父篤麿が亡くなる。
第一高等学校時代に、明治天皇が彼の母の実家に行幸した際、送迎役の近衛家当主の彼は参列を拒否した。また後年昭和天皇に政務を上奏する時、重臣たちが直立不動の姿勢で行なったのに対し、彼は椅子の背にもたれて行なった。「天皇」なにするものぞ、という彼の反抗心の現れであった。
氏祖藤原鎌足から46代目、藤原氏の五摂家の筆頭近衛家の当主である彼は、「藤原」の血への信仰が篤く、「藤原文麿」と刻まれた印鑑を愛した。
大正6年(1917年)「英米本位の平和主義を排す」という論文を雑誌『日本及日本人』に発表した。列強が植民地とその利益を独占している現状は不公平・不平等であり、現状を打破する行動こそ正当な要求である。英米本位の平和は欺瞞だ。
彼は昭和8年にも「世界の現状を改造せよー偽善的平和論を排撃す」という論文を発表した。内容は前論文に近いものであったが、この論文は当時高まりつつあった排外的な愛国心とマッチして彼は人気を博した。
彼に組閣の大命が下されたことを報じる朝日新聞は「白面の青年宰相 わが内閣史上画時代的 四十七歳の近衛公」と狂喜した。
彼は「昭和研究会」というシンクタンクを設立し、尾崎秀実(後にソ連のスパイとしてゾルゲ事件で逮捕)ら共産主義者に首相官邸内で支那事変続行の世論形成のための論文執筆活動をさせた。
彼は共産主義者である風見章内閣書記官長と共に支那事変拡大を扇動する声明を出し、陸軍と世論を煽った。
さらに日独伊三国軍事同盟を締結、南部仏印進駐を強行。これにより米英蘭は対日石油全面禁輸という制裁を行なった。事ここに至り日米戦争は避けられないところまで来た。そうしておいて昭和16年(1941年)10月彼は東條英機に首相のバトンを渡した。
彼自身は共産主義者ではなかったが、日米戦争を起こそうとしていた点では共産主義者と思惑が一致していた。
その後についてはまた次回に。
参考文献=林千勝『日米戦争を策謀したのは誰だ』
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