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老獪な動き
先日訪れた『信長の館』には信長が家康一行をもてなした、安土御献立復元レプリカが展示されていましたが、天正10年5月15日、家康は重臣を引き連れて安土城を訪問している。
対武田勝頼戦の勝利を祝い労をねぎらうという建前はあるものの、三河を離れ信長の領地に深入りすることの危険性を承知で、なぜ信長の命令に従い少人数で安土を訪れたのか?
それは家康と光秀との密約、光秀が信長の命令に従って家康を討つと見せかけて信長を討つ、という密約があったと考えるとすべて辻褄が合う。
家康のそれまでの、老獪な動きを見ていきましょう。
天正9年9月伊賀惣国一揆が壊滅。この時伊賀から三河に逃げた者を家康が領内にかくまう。
天正10年3月の武田滅亡の際も甲斐、信濃からの脱出者を領内にかくまい、本能寺の変後その者らを甲斐、信濃に送り込んで武田旧臣が徳川方に付くよう活動させている。
そして本能寺の変後「神君伊賀越え」と称し苦労して命からがら三河に帰りついたことになっているが、伊賀越えには伊賀者190人が護衛した。これは前年に恩を受けた伊賀のお礼と考えられます。
本能寺の変後、密約の相手光秀を援助するため軍を出すかというとなかなか軍は西へは出さず、変後直ちに甲斐、信濃の織田軍の切り崩しに専念し、まんまと甲斐、信濃を手に入れる。
やっと西へ軍を出したのは6月14日。すでに13日に光秀は山崎の合戦で敗北していた。
ではすんなり兵を退くかと思いきや、さらに軍を進め秀吉軍から兵を退くよう注意されようやく軍を引き返させた。
もし家康が変後速やかに光秀に援軍を送っていれば、山崎の合戦は違った結果になっていたかもしれない。そして明智徳川連合政権が成立していた可能性もなきにしもあらず。
前回の投稿で御幸の間と書いたのは御帳の間の間違いです、訂正させていただきます。また前々回の参考文献は、安部龍太郎『信長はなぜ葬られたのか』、今回の参考文献は明智憲三郎『完全版本能寺の変431年目の真実』です。ありがとうございました。
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