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ブログ

2021-08-01

ジョン・フォン・ノイマン

1945年春、ノイマンはロスアラモス国立研究所からプリンストンの自宅に戻り12時間眠り続け、目を覚ますと妻に打ち明けた。
「今我々が造っているのは怪物で、それは歴史を変える力を持っている。科学者は科学的に可能なことはやり遂げなければならない。それがどんなに恐ろしいことだとしてもだ」
アメリカは原子爆弾の完成を急いでいた。なぜならドイツも原爆の研究に着手していたから。
1939年9月「核分裂のメカニズム」論が科学誌に掲載されると、10月にドイツ陸軍省は「原子爆弾開発計画」を決定。

1940年12月ドイツは原子炉を完成させた。

1942年6月ドイツ軍に呼ばれた科学者ハイゼンベルクは、通常の100万倍の威力を持つ爆弾を2年以内に開発できること、大都市を破壊するのに必要な原爆の大きさはパイナップル1個分であることを答弁した。

しかしその後ドイツの原子炉は制御不能となって大爆発を起こし、さらにノルウェーの重水タンクが破壊され、原子炉の制御に必要な重水の供給が不可能となり、ドイツの原爆開発は暗礁に乗り上げた。

アメリカが原子炉を完成させたのは1942年12月、ドイツより2年遅れていた。

ノイマンをはじめとするハンガリーのブダペストのギムナジウム出身のユダヤ系科学者たちは、ナチスのユダヤ人迫害政策が激化するヨーロッパからアメリカに逃れてきた。彼らは自分たちを受け入れてくれたアメリカのため、戦争を早期に終わらせるため、非人道的な兵器(そもそも兵器は非人道的ですが)の開発に邁進した。

似た状況が第一次大戦時にもあった。

第一次大戦で毒ガスを開発したフリッツ・ハーバーはユダヤ人であるがプロテスタントに改宗しドイツ軍に志願した。彼の妻は毒ガス使用に反対し拳銃自殺した。しかし彼はさらに毒性の強いガスを開発した。1933年ナチスはユダヤ人であるハーバーを公職から追放した。彼の開発した毒ガスはユダヤ人強制収容所で使用された。ハーバーもまた戦争を早期に終わらせるため、人命を救うため毒ガスを開発した。

参考文献=高橋昌一郎『フォン・ノイマンの哲学』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2021-07-07

棍棒を携え、穏やかに話す

フランクリン・ルーズベルト大統領よりもかなり前、アメリカが日本を警戒し始める、その背景について見ていきます。

1 まず日本が日清戦争に勝利し、1895年台湾を割譲される。

2 次にアメリカはメイン号事件をきっかけにジャーナリズムによる世論操作もあり、マッキンリー大統領はスペインに宣戦布告する。1898年米西戦争によりキューバの独立、保護国化だけでなく、フィリピンまで併合した。

しかしフィリピンはアメリカ本国からはあまりに遠く、中継地を必要とした。そこでアメリカは同年ハワイも併合した。

3 アメリカのフィリピン併合により台湾を領有する日本とアメリカはきわめて近い位置関係に立った。

4 1905年日本海海戦において日本の連合艦隊はロシアのバルチック艦隊相手に完勝し、日本は日露戦争に勝利した。日本は東アジアの海洋で最強の勢力となった。

5 日露戦争の和平交渉を買って出たのがアメリカのセオドア・ルーズベルト大統領であった。ルーズベルトはフィリピン防衛のために日本にこれ以上力を持たせるのは危険と考えており、ポーツマス条約で日本に賠償金も領土も与えなかった。

6 さらに1907年アメリカは「オレンジ計画」を策定。「オレンジ」は「日本」の暗号名であり、アメリカ海軍は日本を最大の仮想敵国とみなし軍備の増強を始めた(しかし同じ頃日本もアメリカを仮想敵国とみなしていた)。

セオドア・ルーズベルトは親日家として知られ新渡戸稲造の『武士道』を愛読した。

ちなみに「アメリカ大統領人気ランキング」なるものによればF・ルーズベルトは3位、T・ルーズベルトは4位 (1位はリンカーン、2位はワシントン)。

参考文献=内藤博文『アメリカ歴代大統領の対日戦略』

画像=重森三玲生家跡庭園

2021-07-01

インディペンデント デイ


7月4日はアメリカ独立記念日。

2020年10月、バイデン大統領候補はジョージア州ウォームスプリングスを訪れた。そこはフランクリン・ルーズベルト大統領がポリオ治療のために温泉に通った町である。バイデン氏はルーズベルト大統領と「ニューディール」政策に賛辞を送った。

ところで、F・ルーズベルトは「日本人の頭蓋骨は白人のものより約2000年発達が遅れている」と根拠のない日本人差別をした。ルーズベルトは日米開戦後、多くの日系人を強制収容所に連行し過酷な労働を強いた。

「ニューディール」政策はさして効果を上げず、アメリカが景気回復するのは第二次大戦参戦によってであった。

1945年3月アメリカは3発の原子爆弾を完成させた。「トリニティー」「リトルボーイ」「ファットマン」。それらは7月16日にニューメキシコの砂漠で、8月6日に広島で、8月9日に長崎で使用された。ニューメキシコは「実験」であるが、広島・長崎となると……。アメリカはドイツには原爆を落とそうとしなかったが、日本は原爆の実験対象とされた。

このような日本を警戒・敵視するアメリカの政策はいつから芽生えたか?それはF・ルーズベルトの遠い親戚、彼の憧れの対象であったセオドア・ルーズベルト大統領からではないかと思われます。これについては論点を整理して次回投稿します。

画像=クイーンエリザベス(明石公園)

 

 

2021-06-03

China

2021年7月23日は東京オリンピックの開幕日であるが、奇しくも中国共産党結党100周年の日でもある。

中華人民共和国の「中華」とは?「華」は文明のことであり、中国人は文明の「中」にいる。文明の「外」にいる民族は「夷狄」=野蛮人である。

中華思想を定着・一般化させたのは宋の時代の司馬光。『資治通鑑』(1084年)のなかで、高度な文明を持つ漢人は憐れな周辺蛮族に施しを恵んでやる寛容さを持たなければならない、と記述している。

ところで、その宋王朝はモンゴル人の契丹族の圧迫を受けており、多額の金銭をモンゴル人に毎年貢納してなんとか和平を保っていた。そしてこの屈辱の実態をおおいかくすため中華思想を利用した。つまり文明人である漢人が野蛮人であるモンゴル人に施しをしているという構図に置き換えた。

中華思想は弱い宋王朝の屈辱の裏返しであり極端な民族主義である。

ではその肝心の漢人(漢族)はというと、長い歴史のなかで周辺の多民族と混血を繰り返しており、純粋な漢人はすでに存在しない。

中国を代表する王朝である隋も唐もモンゴル人鮮卑が建国した王朝であり、宋はトルコ人が、元はモンゴル人が、清は満州族が建国した。

英語で中華人民共和国をPEOPLE’S  REPUBLIC   OF   CHINA。「支那」。

しかし中国人は自分の国のことを「支那」とは呼ばない。彼らの主張によると「支那」は戦前の日本人が中国の蔑称として使っていた言葉であり、中華人民共和国=中国という名があるため支那は使わないと。

なので東シナ海は「東海」、南シナ海は「南海」と呼ぶ。

 

参考文献=前回と同じ

画像=桃井ミュージアム(赤穂市)の善導寺型灯籠(江戸時代)

 

 

 

2021-05-25

パレスティナ問題


 パレスティナを支配していたオスマン帝国は19世紀後半には弱体化しており、1894年フランスで起きたドレフュス事件(ユダヤ人大尉ドレフュスの冤罪事件)をきっかけにシオニズム運動(ユダヤ人のパレスティナへの帰還を目指す運動)が起きた。

その後第一次世界大戦でイギリスは戦争の資金調達に苦しみ、ユダヤ人財閥ロスチャイルドに援助を依頼した。ロスチャイルドは援助と引き換えにパレスティナにユダヤ人国家を建設することを約束させた(バルフォア宣言)。

しかし第一次大戦の頃にはすでにエネルギー動力は石炭から石油に移行しており、イギリスは油田を所有するアラブ人の要求にもこたえる必要があり、アラブ人にも居住地を約束した(フサイン・マクマホン協定)。(イギリスのいわゆる二枚舌外交)

第一次大戦後、イギリスはユダヤ人のパレスティナ移住を進めたが、追い出されたアラブ人とユダヤ人は武力衝突を起こした。

イギリスは混乱を収拾するためユダヤ人のパレスティナ移住を制限したため、イギリスに失望したユダヤ人はアメリカでロビー活動を行ない、アメリカにユダヤ人国家建設の支援を約束させた。

1948年ユダヤ人国家イスラエル成立。イスラエル建国後アラブ人はヨルダン川岸地区とガザ地区に移住させられた。

ガザ地区を主導する過激派ハマスによりイスラエルとの対立は激化している。

ちなみにですが、イスラエルの面積は22140k㎡ 四国よりは広く、九州よりは狭い。

参考文献=宇山卓栄『「民族」で読み解く世界史』

画像=先日植栽した花壇

 

2021-05-15

ユダヤ系金融資本と鋼鉄の男ジュガシヴィリ

中世以来ユダヤ人の多くは差別が少ないポーランドに住んでいたが、18世紀にロシアに併合された。

1853年のクリミア戦争でロシアは完敗したが、イギリス軍の蒸気船を見てロシア人は仰天、ロシアは近代化を急いだ。

しかし資金面ではユダヤ系財閥ロスチャイルドの資本に頼らざるを得なかった。ロスチャイルドの投資によってロシアの皇族・貴族は私腹を肥やしたが、一般市民には富が行き渡らず貧富の差が広がり、民衆の不満が高まった。

民衆の不満が政府に向くことを恐れたロシア政府は「富の不均衡の原因はユダヤ人にある」と喧伝した。ロシア政府はいわば「恩を仇で返した」。

そのような時皇帝アレキサンドル2世が暗殺される事件が起きた(1881年)。犯行グループの中にユダヤ人がいたことからロシア全土で民衆がユダヤ人を襲撃する事件が起きた。この時ユダヤ人が逃げ延びた先がヨーロッパとアメリカであり今アメリカに住むユダヤ人のほとんどはロシアからの移民である。

第一次世界大戦中、レーニン率いるボリシェヴィキが帝政ロシアを倒した(ロシア革命)。レーニンは母方がユダヤ人であり、赤軍司令官トロツキーもユダヤ人であった。またボリシェヴィキに資金を提供したのも国外のユダヤ資本であった。乱暴に図式化するとロシア帝国に迫害されたユダヤ人がロシア革命でロシア帝国を倒した。

レーニン死後ユダヤ人トロツキーとグルジア(ジョージア)人スターリンの権力闘争が起き、スターリンの大粛清によりユダヤ勢力は共産党から一掃された。またスターリンはユダヤ資本で開発した鉄道や油田を次々に接収、国有化した。それを見ていた国外のユダヤ系金融資本は怒りに震えた。「スターリンは恩を仇で返した」と。

第二次大戦後、米ソは冷戦に突入するが、その根本にはアメリカに住むユダヤ人のロシアに対する敵対心があった。

参考文献=茂木誠『ニュースのなぜ?は世界史に学べ』

画像=炭俵を積んだ大八車(村岡ファームガーデン)

2021-05-02

ウイグル

ウイグルではイスラム教信仰を厳しく弾圧され、ウイグル語やウイグル文化を教えることも制限され、中国語を強制されている。中国ではかつての一人っ子政策の影響で結婚できない男性が増えた。彼らをウイグル人女性と結婚させ、生まれた子供には中国流の教育を受けさせ、ウイグルの文化・宗教と切り離した。他方、ウイグル人男性は多くが収容所に入れられる。「民族浄化」という恐ろしい実態。

ウイグル人はトルコ系民族であり、トルコ人はもともとモンゴル高原北西部に住んでいた。彼らは突厥(とっけつ)と呼ばれ中国に侵攻したが、唐に敗れモンゴル高原からタリム盆地、ジュンガル盆地に移った。

8世紀にウイグルと名前を変えた。「ウイグル」とはトルコ語で「我、主君なり」。10世紀にイスラム教に帰依しイスラム商人との交易が栄えた。11世紀、トルコ人はさらに勢力を西に拡げ、アジアの西の端アナトリア半島にまで進出、セルジューク朝を建国。さらに16世紀にはオスマン帝国を建国し大発展した。

このようにウイグルはオスマン帝国につながるトルコ系民族であったが、中国清王朝全盛時代を築いた乾隆帝の積極的な対外遠征によりウイグル人居住地のタリム盆地、ジュンガル盆地は征服された。これらの土地は「新疆」(新しい土地の意)と呼ばれた。

参考文献=前回と同じ

画像=弊社植木畑(英国式庭園部)

2021-04-12

95ヶ条の論題

フィレンツェの黄金時代を築いたロレンツォ・デ・メディチの次男ジョバンニは財力にものを言わせ教皇の座を得た。レオ10世である。サン・ピエトロ大聖堂の改築工事を行うにあたり、資金不足に直面しドイツの金融財閥フッガー家から融資を受けた。

フッガー家は貸付金を回収するためレオ10世に、ブランデンブルク選帝侯の弟アルブレヒトにマインツ大司教の座を売るよう説得した。マインツ大司教は7選帝侯のうちの最高位でありその代金は教皇庁の予算1年分であった。

アルブレヒトにもそのような金を用立てることは困難であり、そこでフッガー家は贖宥状の販売を勧めた。弁舌巧みなドミニコ会修道士を連れてきて販売促進を図った。

もくろみは奏功し、フッガー家はレオ10世から貸付金と利子を回収し、アルブレヒトもマインツ大司教に就任しその後枢機卿になった。

この贖宥状に批判の声をあげたのが有名なマルティン・ルターである。

ところで15世紀にドイツの金属加工職人グーテンベルクが印刷を実用化しており、当時大量に印刷された書物は主に聖書であった。ルターは神の教えは聖書によって授けられると説いたが、その背景には一般庶民への聖書の普及があった。

また、そもそも中世以来カトリックの教会勢力はドイツ諸侯の領土の中に土地を保有し、諸侯が手出しできない独立圏を持っていた。諸侯と教会の利害は対立していた。

ルターの「95ヶ条の論題」はパンフレットとして大量に印刷されヨーロッパ中に出回った。ドイツ諸侯たちはルターのローマ・カトリック批判を利用し教会の腐敗をキャンペーン化した。

1546年、神聖ローマ帝国皇帝カール5世とカトリック教会勢力はシュマルカルデン戦争でドイツ諸侯に敗北、以後ルター派諸侯たちは自国領土内で独裁権を固めた。他方、皇帝の権力は弱体化し、ドイツでは分裂状態がその後300年以上続いた。

参考文献=宇山卓栄『「宗教」で読み解く世界史』

画像=赤穂城跡本丸庭園

2021-03-29

スエズ運河とイギリス

1858年、万国スエズ運河会社が創設され、フランスが資金を、エジプト総督からも資金と労働力の提供を受け、1869年スエズ運河は開通した。そもそもフランス人外交官・技術者レセップスが乗馬を教えて親しくなったエジプト総督サイードの支持を得たことが運河建設の発端であった。

工事は10年かかり、クフ王のピラミッド30個分の砂を掘り出すという難工事で、12万人のエジプト人が工事の犠牲となった。建設工事に約1億ドルかかったが、砂漠の巨大水路であることにより、その後の補修・修理にさらに巨額の費用がかかった。

エジプトは当時の南北戦争の影響で価格が高騰していた綿花に目をつけ、綿花の栽培で運河の費用を賄おうとした。しかし南北戦争後、綿花価格は大暴落しエジプト財政は悪化した。

1874年当時スエズ運河を通過する船の総トン数の73%をイギリス船籍の船が占めていた。またスエズ運河により、ロンドンとインドのポンペイとの距離は5300km、当時の時間で24日短縮でき、イギリス・インド間の距離は3分の1になった。アジア貿易を支配するイギリスにとってスエズ運河は垂涎の的であった。

1875年エジプト総督はスエズ運河の株式の4割を売りに出した。フランスは普仏戦争でビスマルクのプロイセンに敗れ、その賠償金の支払いのため運河を買収する余裕はなかった。

イギリスの首相ディズレーリはスエズ運河株が売りに出されたという極秘情報を得ると、休会中の議会には相談せず、独断でユダヤ人財閥ロスチャイルドから4000万ポンド(2000万ドル)を借り入れ運河株を購入した。ロスチャイルドから抵当の話が出されるとディズレーリは即座に「イギリスを抵当にする」と言ったとされている。

参考文献=宮崎正勝『商業から読み解く「新」世界史』

画像=整備中の弊社車庫横植木畑(日本庭園部)

2021-03-01

Bismarck

先日ヒロシ氏のラトビアを旅する番組を見ていると「ニシンの塩漬け」が出てきてニシンの健在を知り少し嬉しくなりました。

さて第一次世界大戦に至る背景・要因として挙げられるのが、新興国ドイツの急成長です。当時の覇権国イギリスが綿織物工業を中心とする軽工業が主要産業であったのに対し、ドイツは重工業により急成長し、第一次大戦直前にはGDPでイギリスを抜いており、ヨーロッパのパワーバランスを崩しかけていた。

1815年のウィーン会議の結果、ドイツ地域は35の君主国と4つの自由都市から成るドイツ連邦とされた。そのドイツ諸国を統一し1871年ドイツ帝国をつくったのがビスマルクです。

1873年、訪欧中の日本の岩倉使節団はベルリンでビスマルク宰相と会談した。その席でビスマルクは「諸君は列強諸国と結んだ不平等条約の改定をめざしておられる。しかし列強は自国の利益になるときは国際法や条約を守るが、自国の利益にならないと判断すればたちまち法を無視して武力に訴える。それが国際社会の現実だ。諸君は条約のことばかり気にするより、富国強兵に集中して実力をつけることに専念した方がよい。実力をつけて独立を守る、そうしないと列強の植民地獲得競争の餌食になってしまう」と述べた。

この会談で大久保、伊藤らはビスマルクに心酔し「我、日本のビスマルクたらん」と決意した。

当時ビスマルクはデンマーク、オーストリア、フランスの三か国をたった7年で矢継ぎ早に屈服させドイツ帝国を創立するという歴史的な快挙から2年しか経っておらず、ドイツ外交成功の絶頂期であった。明治の元勲たちは「外交・軍事政策はビスマルクのように大胆かつ攻撃的にやるべし」と思い込んでしまった。

しかしビスマルクはすでに「果敢な武断主義者」から「慎重で避戦的な勢力均衡主義者」に移行中であった。ドイツ統一後のビスマルクはそれ以上の領土拡張や侵略戦争は一切望まなかった。

明治~昭和期の日本人はドイツ統一前の果敢で武断主義的なビスマルク外交に大いに関心を持ち、その戦略を模倣した。しかしドイツ統一後の慎重に熟慮されたバランスオブパワー戦略には関心を持たなかった。

参考文献=前々回と同じ

画像=世界の梅公園(たつの市)