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ブログ

2019-06-10

源頼家

といわれてもすぐにはピンと来ないかもですが、源頼朝の長男、鎌倉幕府第二代将軍です。この人は『吾妻鏡』ではわがまま勝手しほうだいで無能故に自滅したように書かれているが、その真偽は?

たとえばご恩と奉公という武士の契約の基礎である土地の裁判で、現地調査をせず図面の中央に線を引き、土地の広い狭いは運次第、異論あれば裁判禁止と暴言。

しかし他の史料でちゃんと現地調査したことがわかっている。

他にも頼家をおとしめる記述には事欠かないわけですが、むしろ京都の建仁寺の建立を支援したり臨済宗の高僧栄西を鎌倉に招いたりと評価すべきことも行っている。

歴史は勝者がつくるといわれますが勝者北条氏に都合よく書かれている。

先月近江八幡に行った際、「豊臣秀次」という名前の日本酒を見つけ、また運河「八幡堀」が秀次の時代に造られその後の近江商人活躍の基礎を作ったことから秀次が近江八幡発展の恩人という扱いをされているのを知り大変驚いたことがありましたが、歴史上の敗者が必ずしも無能とは限らない。

また先日丹波の亀岡に行った際は亀山城址近くの南郷公園に今年明智光秀像が建てられているのを発見。謀叛人という足かせはあるものの軍事に秀でるだけでなく文化人としての教養も兼ね備える人物として称えられている。毎年5月には光秀まつりも行われているそうです。

写真は松尾神社(東近江市)

2019-05-27

庭園点描 諸戸氏庭園

庭園に足を運び実際に感じたこと、とりわけ新しい発見や感動があったときはそれを伝えたいと思い、記事を書きます。

しかしなかなか発見も感動もない場合が多いのも事実。

そこで気がついた事をできるだけ書いていくようにしたいと思い庭園点描と題しました。

岐阜城に行った前日、桑名市の諸戸氏庭園に行きました。桑名と言えば、「その手は桑名の焼き蛤」で有名?な所ですが。

諸戸清六の経歴等は省略させていただきますが明治時代の豪商らしいです。

さてこの庭園で個人的に一番よかった所は青石を敷き詰めた築山園路です。これは他には見られない壮観です。

この庭独特な特徴としては庭の中央の池の周囲に、主たる建物の前を除いてぐるりと松が植えられていることです。このため園路から池を見る際松の枝越しに見ることになり、これを奥ゆかしいととるか観にくいととるかは難しいところとも言えますが。

教科書に載せられそうな模範的なあられこぼし

なかなか他にはない石畳

2019-05-01

信長公居館跡

岐阜城はかつて稲葉山城と呼ばれ難攻不落の城としてドラマでも描かれましたが、金華山(標高329m)の山頂にあり、ロープウェーで山頂駅まで登ってもそこから歩くのが大変。確かに難攻不落の城です。

さて山麓の信長居館発掘調査案内所で信長の居館の再現CG映像を拝見しましたが、各建築物を空中回廊で結んだ壮大な建築群となっていました。

山の斜面の岩盤を背景にした庭園もあるのですが、こちらも楼閣が建ち並んでいます。高さ35mの岩盤から流れ落ちる2本の滝(おそらく人工的に流した)と池、池に接近というより池に乗り出して建つ楼閣。

いわゆる日本庭園的に滝石組を組んで水を流すのではなく、天然の岩盤に水を流し池の護岸石組を基礎にして楼閣を建てた。

これは自然を再現してそれを観賞する庭園ではなく、岩盤という自然を利用しそこに人工的に建築物を建てる。いわば自らの意のままに自然をも操る、信長らしい強引かつ革新的な庭園のように感じました。

2019-04-19

池田光政

岡山後楽園は岡山藩主池田綱政が岡山郡代官津田永忠に命じて造らせた。

では津田永忠はどんな仕事をした人物か?

干拓による新田開発と水害対策のための治水工事、いわば土木工事の専門家のようです。

池田綱政は二代目藩主であり、初代は名君として知られる池田光政。

では池田光政はどのような政策を行なったのか?

光政も新田開発と治水事業、さらに閑谷学校を開き教育を充実させ、質素倹約を旨とした。従って庶民の奢侈を禁止した。

派手な祭礼を禁じ、元日、祭礼、祝宴以外での飲酒を禁止した。

この光政の質素倹約の方針は基本的には受け継がれたと思われます。なぜなら土木専門の家臣を後楽園作庭の責任者にして造園も兼務させた訳だから。

このため園内の流れは治水工事のように施工され、巨大な石を力付くで運んだのか。実用を兼ねた茶畑があるのか。 なんとなく納得。

2019-04-18

先憂後楽

久しぶりに庭園の記事を書きます。岡山後楽園に行ったので。

庭園の完成が元禄十三年(1700年)で典型的な大名庭園。

いわゆる大名庭園に共通して感じる事項を挙げていきます。

1.この庭には大立石と烏帽子石という高さ5m以上の巨石を何十かに分割し現場で元通りに組み立てた石があります。大きいままでは運搬できないので分割して運び現場で復元した。それは石工の技術のなせる技だと注釈されていました。

しかしそもそも人間は自分の身長を越える石を正確に観賞できるのか。そこが私は疑問に思います。

大名の権力を誇示する。それぐらいしか思い浮かばない。

2.園内の中央に位置する池に三つの島があり、いやでも一番の見所です。

しかし江戸時代の風潮か島を大石では囲わず、石は省略的にしかも低く伏せて使い、ぐったり疲れた脱力系石組。

3.日本庭園の流れというと大石や小石、いろいろな形の石を使い、流れに突き出たり引いたりのリズム感ある出入りの線が見て楽しいのに、ここでは四角に加工された石がただ直線に並んでいるだけ。  残念。

しかしそんな中、園内随一の築山石組が

2019-04-17

処世術の神

細川藤孝は初め足利義輝に仕え、義輝亡きあとは義輝の弟、後の義昭に仕え各地の大名を頼り流浪したが、信長という有力大名に出会い義昭は将軍になった。

義昭と信長が対立すると義昭の逆心を信長に密告し信長の家臣となった。

信長の家中においてはかつて自分の部下であった光秀の与力という立場であった。嫡男忠興の妻は光秀の娘玉であり光秀とは親戚関係でもあった。

本能寺の変に際しては光秀の再三の援軍要請を断り剃髪して隠居した。

その後天下を手中にした秀吉は藤孝に光秀の丹波を与え十一万石に加増した。このことから藤孝が秀吉に格別の貢献をしたことが推定される。

秀吉亡きあとは家康につき、関ヶ原では忠興は家康方として前線で石田三成と戦い、戦後豊前小倉藩三十九万九千石の大封を得た。

寛永九年忠興の子忠利は肥後熊本五十四万石に加増、移封された。

以後明治の廃藩置県まで細川家は藩主として存続した。

戦国乱世を生き抜いた世渡りの神。

2019-04-09

迅速すぎる「中国大返し」

秀吉と毛利が備中高松城で対峙中、毛利方が和睦条件の中で難色を示したのが高松城主清水宗治の切腹であった。毛利に味方した人物を死に追い込むことを毛利氏は嫌った。

安国寺恵瓊は天正10年6月4日水攻めで孤立した高松城に乗り込み清水宗治を説得して切腹させたが、これは毛利氏の承諾を得ずに恵瓊の一存で行なったことであった。

秀吉と恵瓊は共謀してすでに和睦の基本合意をしていてあるタイミングを計っていたとも言えます。恵瓊はそもそも毛利氏に滅ぼされた安芸武田氏の遺児であったし、翌年には秀吉の直臣となっている。つまりは毛利への忠誠心がなかったとも言えます。

そして秀吉も光秀同様、信長の長期政権構想(つまり信長の子孫に政権を引き継がせ長期織田政権を保つ)に不安を抱いており、いずれは近江長浜城を奪われ遠国に移封され、やがては明にまで派遣されることを予想し、それを覆す機会をうかがっていたであろうことが考えられます。

秀吉は、光秀と結びついた長宗我部元親と対立する三好康長に肩入れし、光秀を窮地に立たせ光秀がどう動くか注視していた。いわば光秀の決起を待っていた。

そして本能寺の変の報を聴くや一気に和睦を成立させ、有名な「中国大返し」の神業を成し遂げた。

参考文献は今回も明智氏の前掲書です。

2019-03-17

老獪な動き

先日訪れた『信長の館』には信長が家康一行をもてなした、安土御献立復元レプリカが展示されていましたが、天正10年5月15日、家康は重臣を引き連れて安土城を訪問している。

対武田勝頼戦の勝利を祝い労をねぎらうという建前はあるものの、三河を離れ信長の領地に深入りすることの危険性を承知で、なぜ信長の命令に従い少人数で安土を訪れたのか?

それは家康と光秀との密約、光秀が信長の命令に従って家康を討つと見せかけて信長を討つ、という密約があったと考えるとすべて辻褄が合う。

家康のそれまでの、老獪な動きを見ていきましょう。

天正9年9月伊賀惣国一揆が壊滅。この時伊賀から三河に逃げた者を家康が領内にかくまう。

天正10年3月の武田滅亡の際も甲斐、信濃からの脱出者を領内にかくまい、本能寺の変後その者らを甲斐、信濃に送り込んで武田旧臣が徳川方に付くよう活動させている。

そして本能寺の変後「神君伊賀越え」と称し苦労して命からがら三河に帰りついたことになっているが、伊賀越えには伊賀者190人が護衛した。これは前年に恩を受けた伊賀のお礼と考えられます。

本能寺の変後、密約の相手光秀を援助するため軍を出すかというとなかなか軍は西へは出さず、変後直ちに甲斐、信濃の織田軍の切り崩しに専念し、まんまと甲斐、信濃を手に入れる。

やっと西へ軍を出したのは6月14日。すでに13日に光秀は山崎の合戦で敗北していた。

ではすんなり兵を退くかと思いきや、さらに軍を進め秀吉軍から兵を退くよう注意されようやく軍を引き返させた。

もし家康が変後速やかに光秀に援軍を送っていれば、山崎の合戦は違った結果になっていたかもしれない。そして明智徳川連合政権が成立していた可能性もなきにしもあらず。

前回の投稿で御幸の間と書いたのは御帳の間の間違いです、訂正させていただきます。また前々回の参考文献は、安部龍太郎『信長はなぜ葬られたのか』、今回の参考文献は明智憲三郎『完全版本能寺の変431年目の真実』です。ありがとうございました。

2019-03-10

安土城跡

念願の安土城に行って来ました。

残っているのは、石段、石垣、礎石ですが。

本丸跡の現状は、このような樹林公園といった趣きです。

御幸の間があったとおぼしき地点から天主方向を見てもこんな感じ

史跡の整備保存がいかに大変かを思い知らされました。

2019-02-14

僭上の極み

安土城の発掘調査を進める滋賀県安土城郭調査研究所は、2000年2月に安土城本丸跡の礎石配置が内裏の清涼殿に酷似していると発表しました。

これは天皇を迎えて天下に威信を示し、さらに城内への天皇の移住まで視野に入れていたと考えられています。

実際、信長は正親町天皇の皇太子誠仁(さねひと)親王の第五皇子(第六皇子は桂離宮で有名な八条の宮智仁親王)を猶子としており、この五の宮を天皇に即位させれば信長は名目上太上天皇となり、朝廷を意のままにできる。朝廷を支配下に置こうという野心を持っていた可能性は高い。

さらに安土城の「清涼殿」の間取りが内裏の清涼殿の間取りとは東西が逆になっている点が重大な問題です。

清涼殿の間取りは古式によって厳しく定められており変更は許されない。しかし信長は儀式を行なう御帳の間を東庭に面して配されるべきところを西に配置した。

なぜか? 答えは、信長が居住する天主閣が西側にあるからである。御帳の間を古式を無視して自分の方に向けさせ、天主閣から見下ろす形にしたのであった。

このあたりの究極の僭上が身を滅ぼすもとになったのでは?