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ブログ

2019-10-07

新古今和歌集

  • 北条時政、政子は源頼家の妻の一族比企氏を滅ぼし、さらに頼家を修善寺に幽閉した。この時頼家はまだ存命であったが幕府は頼家死去と奏上し頼家の弟千幡を征夷大将軍に任命する。千幡に実朝の名を授けたのは後鳥羽上皇であった。
  • 後鳥羽上皇の母七条院の弟坊門信清の娘(つまり後鳥羽のいとこ)が実朝の妻となる。後鳥羽と実朝は親戚であった。後鳥羽の和歌への執心の影響もあり実朝も和歌を始めた。
  • 古今和歌集は身分の低い作者が中心であったが、新古今和歌集は五位以上の殿上人中心の和歌集で後鳥羽自ら編纂に関わった。
  • 後鳥羽は日本書記以外行われなかった完成時の竟宴(饗宴)(言わば打ち上げパーティー)を行った。
  • 新古今和歌集には源頼朝の和歌が掲載されている。

道すがらふじの煙もわかざりき はる  る間もなき空のけしきに

(晴れる間もない曇り空だったので富  士山の噴煙が見えなかった)

頼朝の時代、富士山は煙を噴いていた  のか。

2019-09-23

evil woman

日本三大悪女の一人とされる北条政子の暴挙の一つとして、頼朝の愛人亀の前の邸宅破壊事件が挙げられますが、政子に告げ口したのは例の北条時政の後妻牧の方であった。その後の数々の騒動、事件を考えれば政子よりも牧の方のほうが悪女ぶりが凄まじいと思います。

代表的悪女日野富子の日野家はもともと将軍の正室になれる家柄ではなかったが、三代将軍足利義満が7歳年上の日野業子(なりこ)を寵愛し正室として扱った。このためこれ以後の足利将軍正室は代々日野家から選ばれることとなった。

参考文献 本郷和人『人物を読む 日本中世史 頼朝から信長へ』

2019-09-09

庭園点描 神吉氏本陣別邸跡庭園

佐用町の道の駅「宿場町ひらふく」の前の373号線を渡って宿場町平福を歩くとそこは閑静(閑散)な通りになっています。

「農村カフェ記憶」には「平福神吉氏本陣別邸跡庭園」があり、元禄期のものとされています。スイレンの仲間コウホネが茂り過ぎて少々うるさいしやっぱり除草の問題はありますが、元禄期と言われても納得の石組、要所にきちんと名石を配置した、小規模ながら庭園として締まりのある構成は素晴らしいと思いました。

2019-08-27

永楽通宝

司馬遼太郎の小説『国盗り物語』で浪人松波庄九郎、後の斎藤道三が油の辻売りで見せた芸。売り手の枡から買い手の壺に油を移す時、一筋の糸のように垂らし永楽銭の真ん中の四角い穴を通す。もし油が一滴でも穴の外にこぼれたら代金はいただかないと口上を述べる。

「枡は天竺須弥の山、油は補陀落那智の滝、とうとうたらり、とうたらり、仏天からしたたり落つるおん油は、永楽善智の穴を通り、やがては灯となり無明なる人の丗照らす………」

これは司馬遼太郎の創作ではありますが、ここで使われた永楽銭、永楽通宝は、織田信長の旗印でもありました。

上杉謙信の「毘」武田信玄の「風林火山」徳川家康の「厭離穢土、欣求浄土」など精神的な世界観などではなく、銭そのものを軍団の象徴とする画期的な旗印です。しかも中国の明の時代の年号の輸入通貨。現代で言えば新興企業が徽章にアメリカのドル紙幣を描いているようなものか。

信長は次男信雄を伊勢南部を支配する北畠氏の養子に、三男信孝を伊勢北部を支配する神戸(かんべ)氏の養子にしている。いずれも相手を屈服させ信長の遺伝子を受け継ぐ者を送り込み乗っ取るための手段であった。伊勢を支配し伊勢湾の制海権を把握する。商船から港に上陸する際に関税を徴収する。信長にとって伊勢は重要な財源であった。にしてもなぜ銭?

写真は三宝院庭園

2019-08-15

伊賀

以前家康に関して書いた「伊賀惣国一揆」「神君伊賀越え」について伊賀に行けば何かわかるかと思い伊賀上野に行きましたが、結果としては以前の記述以上のものは発見できなかった。

忍者ショーや忍者コスプレ、ご当地キャラクター「タいが」など子供受けを狙った企画については仕方ないと思いますが、その奥には基本的な歴史的事実の定着があってほしい、というか自分自身の勉強の問題ですけど。忍者といういわば裏の歴史の問題なのでさらに難しいのでしょう。

前回の写真は斎藤利三の娘、後の春日の局の腰掛岩

今回は伊賀上野城天守

2019-07-22

後妻の奸曲

北条時政の先妻の子は有名な政子、義時、時房、畠山重忠の妻、その他。

その後時政は娘の政子と同世代の牧の方を後妻に迎える。牧の方の子は清和源氏の子孫、平賀朝雅(ともまさ)や宇都宮頼綱に嫁いでいた。平賀朝雅は武蔵守となり、後鳥羽上皇とも接近、後鳥羽の笠懸の師匠となり権勢を誇った。

酒宴の席で朝雅と畠山重忠の息子が口論。これは時政の先妻の娘婿と後妻の娘婿の争いであった。これを聞いた牧の方は時政に畠山親子を討つよう要求。時政は義時、時房に命じたが二人は拒んだ。そこで牧の方は自分の兄弟をつかわし再度討伐を要請し二人は仕方なく了承し、坂東武者の鑑とも言われた畠山重忠は討たれた。「重忠は時政の先妻の聟(むこ)なり。朝雅は後妻の聟なり。当妻の奸曲により重忠並びに一族誅さる。」

さらに牧の方は幼い将軍実朝を廃して朝雅を将軍にしようと画策。しかし失敗し朝雅は討たれ時政は地元に謹慎させられた。

また同じく牧の方の娘婿である宇都宮頼綱にも謀叛の噂があったが、頼綱は直ちに出家し髻(もとどり)を献上して陳謝の意を示した。

その後牧の方は夫時政の十三回忌法要を娘たちと営んだ。

2019-07-18

庭園点描 三宮フラワーロード

三宮東遊園地地下の駐車場から地上に出てフラワーロードを歩いていると、歩道の植樹帯に色とりどりの草花が植えられていて、都会の中で気持ちがほっとして大変心地いいと思えました。今更ながら植物のリラックス効果。なかにはこんなミニチュアガーデンもありました。

2019-07-01

A氏の実像に迫れる?

来年の大河ドラマ決定を承けて旧丹波国内の歴史資料館等が明智氏の講演会や展示等いろいろ企画が進んでいるようです。

亀岡市での講演会に行きましたが、なかなか実像を掴むのは至難の技のようです。

まず丹波は禅宗の勢力が強く浄土真宗、日蓮宗があまり普及しなかった。そのため寺内町が発達せず城下町のような都市が形成されなかった。

城下町が築かれたのは亀山、福知山を光秀が築城、城下町を整備した時まで待たざるを得ない。

次に光秀の人物像ですが、戦により傷を負った部下を気遣ったり 討死した者の供養に米を寄進したりと、大変きめこまやかな丁重な気の使いようがうかがえます。

それは信長に対しても同様で細心の注意を払っている。

柴田勝家や羽柴秀吉が遠方に配置されたのに比較しても格段に上位に位置付けされ側近中の側近といえます。

また八上城攻めの際光秀の母が磔にされたという伝承がありドラマのひとつの見所とされているがそれについては否定的な見方が多いようです。

亀岡、福知山についてはまだまだ知らないことばかりですがまた追々投稿します。

写真は谷性寺のアジサイです。

2019-06-17

庭園点描 六甲高山植物園

六甲高山植物園は植物学の権威、牧野富太郎博士の指導のもと昭和8年に開園した、大変歴史のある植物園です。

園内には滝や流れもあり起伏に富んだ地形を生かし庭園としてもなかなか面白い。縦横無尽にはりめぐらされた園路により植物観賞がしやすくされています。

平成20年にはスイスの高山植物園と姉妹提携しており、園内中央のロックガーデンは日本のエリアとスイスのアルプスをイメージしたエリアに分けられ、「エーデルワイス」という歌で有名なエーデルワイスが咲いていました。

エーデルワイスはドイツ語で「高貴な白」という意味らしいのですが、一見してその良さがすぐにはわからない大変地味な花でした。

「知床旅情」で有名なハマナス

2019-06-10

源頼家

といわれてもすぐにはピンと来ないかもですが、源頼朝の長男、鎌倉幕府第二代将軍です。この人は『吾妻鏡』ではわがまま勝手しほうだいで無能故に自滅したように書かれているが、その真偽は?

たとえばご恩と奉公という武士の契約の基礎である土地の裁判で、現地調査をせず図面の中央に線を引き、土地の広い狭いは運次第、異論あれば裁判禁止と暴言。

しかし他の史料でちゃんと現地調査したことがわかっている。

他にも頼家をおとしめる記述には事欠かないわけですが、むしろ京都の建仁寺の建立を支援したり臨済宗の高僧栄西を鎌倉に招いたりと評価すべきことも行っている。

歴史は勝者がつくるといわれますが勝者北条氏に都合よく書かれている。

先月近江八幡に行った際、「豊臣秀次」という名前の日本酒を見つけ、また運河「八幡堀」が秀次の時代に造られその後の近江商人活躍の基礎を作ったことから秀次が近江八幡発展の恩人という扱いをされているのを知り大変驚いたことがありましたが、歴史上の敗者が必ずしも無能とは限らない。

また先日丹波の亀岡に行った際は亀山城址近くの南郷公園に今年明智光秀像が建てられているのを発見。謀叛人という足かせはあるものの軍事に秀でるだけでなく文化人としての教養も兼ね備える人物として称えられている。毎年5月には光秀まつりも行われているそうです。

写真は松尾神社(東近江市)