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ブログ

2023-01-01

大家族社会

明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。
なかなか読書できなかったり現場が忙しかったりでご無沙汰しました。
さて「広義のロシア」は「大ロシア(ロシア)」「白ロシア(ベラルーシ)」「小ロシア(ウクライナ)」から成り、広義のロシアからするとウクライナはロシアの一部と考えられる。

しかし人類学的にはロシア社会とウクライナ社会はかなり違っている。ロシアの農村社会は家父長制の大家族であり、権威に従うことに慣れていた。このことが共産主義と親和性を持っておりロシア革命を実現させた。大家族(共同体家族)の社会は、権威主義的な社会で平等概念を重んじ集団行動を得意とする。こうした社会がプーチンのような権威主義的な指導者を支持する。

他方ウクライナ(小ロシア=ウクライナ中部)は核家族の社会であり個人主義の社会である。ロシアよりはイギリスやアメリカの社会に近い。このためロシア人はウクライナ人を「少しとがったロシア人、自分勝手でアナーキー、ポーランド人みたい」と見ている。

またウクライナは中部(小ロシア)とほぼポーランドの西部、ロシア語圏を含む東部・南部、この3つの地域の社会がそれぞれかなり違っている。

さらにウクライナでは、高等教育を受けた労働人口がドイツをはじめ西欧諸国に大量に流出、独立以来30年で人口は5200万人から4500万人に激減した。

今後もしウクライナが戦勝したとしても国家の再建は前途多難は必至。

 

参考文献=エマニュエル・トッド『第三次世界大戦はもう始まっている』

 

2022-10-23

バイデンの誘導

 西側の情報ではウクライナに不利なことは無視され報道されないので、今までウクライナ情勢の本当のところはなかなか見えてこなかった。最近やっと真相が見えつつあるように思いますので整理します。

1 2014年2月のマイダン革命により親米政権が成立。報復としてプーチンはクリミアを併合。
2 しかし親米政権に東部ドンバス地方の親露派住民が反発、内戦が起こる。

3 この内戦を停止させるために、2014年9月に例の「ミンスク合意」が結ばれた。しかし戦闘は止まず2015年2月には「ミンスク2」が締結された。

4 2019年に大統領に就任したゼレンスキーは、ロシアに有利との国内の反発もあり「ミンスク合意」を履行しないことを決めた。

5 2021年3月24日ゼレンスキーはクリミア奪還を目指すとの政令を出し、軍備を南方に向け配置した。同時に黒海・バルト海周辺でNATOの軍事演習も行われた。ロシアも対抗して軍事演習を実施した。

6 2121年10月ウクライナはドンバス地方の燃料庫をドローンで攻撃した。これは「ミンスク合意」違反の行為であった。

7 2022年2月11日ベルリンで独・仏・ウクライナ・露の四者会談が行われた。何の成果もなく、ウクライナは「ミンスク合意」順守を拒否した形となった。

8 2022年2月16日以降ウクライナ軍はドンバス地方の住民への砲撃を続けた。

9 プーチンは、ドンバス地方の親露派住民が殺されるのを傍観するか、軍事介入するかの選択を迫られた。

10 2022年2月17日アメリカのバイデン大統領は、ロシアが数日以内にウクライナを攻撃する可能性があると発表した。バイデンがゼレンスキーに圧力をかけてドンバス地方を攻撃させ、プーチンが反撃するよう誘導したのであった。

参考文献=高島康司『グレート・リセット』

 

2022-10-02

中東の狂犬

 前回同様アメリカの介入についてみていきます。
エジプトとチュニジアに挟まれたリビアで1969年から2011年まで権力を握ったカダフィ大佐については、その独裁と非民主主義国家というイメージしかないが、実際の内政はどうだったのか?カダフィの功績を列挙します。
・石油の利益によりリビア国民にアフリカ最高水準の生活をもたらした。
・教育・医療費無料
・女性の教育・就労を奨励
・新たな就農者には土地・家・家畜・飼料を無料支給
・灌漑設備により砂漠の緑地化
ただカダフィは選挙権を認めなかった。
2010年にチュニジアから始まった「アラブの春」はエジプト・リビアにも波及した。大統領は失脚したが殺害まではされなかった。しかしカダフィだけは殺された。カダフィが殺害されたとき当時のオバマ政権の国務長官ヒラリー・クリントンは狂喜した。2012年のアメリカ大統領選挙を控えていたオバマと、2016年の大統領選挙に出たクリントンにとって、リビアの民主化を達成したという外交的成果が欲しかった点では一致していた。ではなぜカダフィだけが生存を許されなかったのか?

 2009年カダフィはアフリカ連合の議長をしていたが、石油をドルで決済するというペトロダラーシステムに挑戦し、リビア通貨ディナールに金兌換性を持たせ石油決済をディナールでするよう提案し、エジプトとチュニジアが賛同した。これはアメリカのドルを脅かすものであった。

 カダフィ政権崩壊後、リビアはイスラム主義勢力の西部と世俗派の東部に分裂し、内戦状態に陥った。トルコや旧宗主国のイタリアが西部を、ロシアやエジプトが東部を支援している。カダフィ時代にくらべ、治安も経済も格段に悪化した。

 

 

画像=瑠璃寺(佐用町)の渓谷

 

2022-08-25

ヌーランド女史

 ヴィクトル・ヤヌコーヴィチは1950年に生まれ1967年暴力団に加わり強盗事件に関わり懲役刑に服した。1970年に再び強盗事件により懲役刑の判決を受けた(1978年に裁判所は判決を無効とした)。その後人生は大きく好転し2002年には首相になり、2004年のウクライナ大統領選挙に立候補した。対立候補は同じヴィクトルの名を持つユシチェンコで前政権下の汚職や非民主的な政治手法を攻撃した。
 2004年9月ユシチェンコの顔はダイオキシン中毒とみられるあばたに覆われた。ユシチェンコは対立候補またはロシア連邦保安庁の犯行と主張した。
 11月の選挙の結果ヤヌコーヴィチの勝利が発表されたが、ヤヌコーヴィチ側の選挙不正が明るみに出、大規模な抗議運動が起きたーオレンジ革命。選挙をやり直すこととなり12月の選挙でユシチェンコが勝利、ユシチェンコが大統領となった。
 しかしユシチェンコは首相のティモシェンコと対立し、天然ガス問題で政権批判が強まり2006年にはヤヌコーヴィチが首相に返り咲いた。その後ユシチェンコの支持は低下し2010年の大統領選挙ではヤヌコーヴィチが当選した。ドネツク州に生まれたヤヌコーヴィチは親露派であったが、議会はEUとの政治・貿易協定を望んだ。2013年ウクライナ政府はEUとの仮調印をしたが、ヤヌコーヴィチは署名を拒否した。調印予定日の11月21日キーウの独立広場に多数の市民が集まり始め抗議行動は長期化し、11月末には政府が機動隊を投入し負傷者が出たことからさらに抗議行動は過激化し、火炎瓶を使うに至った。そのデモ隊の先頭にいたのは極右政党の行動隊などいわゆるネオナチであった。
 2014年2月21日ついに大統領官邸と議会が反体制派に占拠され、ヤヌコーヴィチはロシアに亡命したーユーロ・マイダン革命。
 マイダン革命の最中、抗議派にクッキーを配っていたのが当時のオバマ政権の国務次官補ビクトリア・ヌーランドであった(今のバイデン政権の国務次官)。
 このことが意味することはーヤヌコーヴィチを追放し親米政権を樹立するためアメリカが動いていた可能性が高い。実際6月に大統領に就任したポロシェンコは親米の人物であった。このようにウクライナ情勢は一方的にプーチンが悪いとするアメリカの見方のみを信じることも危険であるといえる。

2022-08-03

ネオナチとは

 ロシアはウクライナ政権を「ネオナチ」と非難した。大統領がユダヤ人であるのになぜナチス?このことについて追及したいと思います。
 1909年に生まれたステパン・バンデーラは1929年ウクライナ民族主義者組織に入党、33年に幹事長となる。当時西ウクライナへの同化政策・弾圧を進めていたポーランドに対する反対運動を展開した。その過程で大臣暗殺事件に関与したとして逮捕・服役した。1939年第二次世界大戦が勃発しポーランド政府が崩壊し、バンデーラはドイツ軍により解放され前記民族主義者組織に復帰、41年には総裁となった。
 バンデーラは「敵の敵は味方」の論理によりソ連に対抗する必要からナチスへの接近を画策し、「ウクライナ国家再生宣言」を発表したが、当時ウクライナを占領していたナチスにより強制収容所に送られた。これによりバンデーラは独ソ双方と戦う象徴とされた。
 戦後はウクライナ蜂起軍と連携したが、1959年KGBにより暗殺された。
 2004年にウクライナ大統領になったユシチェンコはバンデーラに「英雄」の称号を与えた。2014年にウクライナ大統領となったポロシェンコはバンデーラのみならずウクライナ民族主義者組織、ウクライナ蜂起軍も「英雄」として讃え、2016年にはキーウの「モスクワ通り」は「ステパン・バンデーラ通り」に改名された。
 ロシアはバンデーラをソ連からのウクライナ独立を主張した反ソの「ファシスト」と認定しておりバンデーラを英雄視するウクライナ人を「ネオナチ」としているようだ。

参考文献=佐藤優『プーチンの野望』

2022-07-14

自作自演

 1999年8月7日チェチェン共和国の武装集団がロシア連邦の一部であるダゲスタン共和国へ侵攻した。
 チェチェンの大統領マスハドフは武装集団の侵攻を批判しロシアに和平を申し込んだ。
 しかし8月9日に首相代行に、16日に首相に就任したプーチンがこの機会を逃すことはなかった。
 9月、ロシアの4箇所で民間マンションが爆破され307人が死亡した。プーチンはチェチェンのテロリストによる犯行であると発表し、9月30日ロシア軍はチェチェン共和国の国境を超え、第二次チェチェン戦争が始まった。これによりプーチンは「強いリーダーシップを発揮できる指導者」とされプーチンの支持率は上昇した。
 しかし民間マンションの爆破はFSB(連邦保安庁)の謀略であり、プーチンの「自作自演」であったとされている。
 その証拠として9月13日の連邦議会下院議長の発言があげられる。「今朝ヴォルゴドンスクのマンションが爆破されたとの報告を受けた」。しかし13日に爆破されたのはモスクワのマンションであり、ヴォルゴドンスクのマンションが爆破されるのは16日つまり3日後のことであった。議長に報国した人物はヴォルゴドンスクでの爆破計画を知っていた。
 2022年2月17日ウクライナ東部ドンバス地方で親ロシア勢力が幼稚園を砲撃した。ロシア政府系メディアは「ウクライナ側の砲撃である」とフェイク情報を流した。
 翌18日には「ウクライナ軍の空爆がある」と喧伝した後、親ロシア勢力幹部の車両が駐車場で爆破され、さらに石油インフラが砲撃された。まるで事前に空爆を知っていたかのような、「絵に描いたような自作自演」。
 ドンバス地方で親ロシア系住民が虐殺されていることを理由としてプーチンはウクライナ侵攻を開始した。

参考文献=グレンコ・アンドリー『プーチン幻想』黒井文太郎『プーチンの正体』

 

2022-06-21

EU対プーチン

 2019年9月EUの欧州議会は「欧州の未来に向けた重要な欧州の記憶」決議を可決した。これは第二次世界大戦の原因としてナチスだけでなく、ナチスと不可侵条約を結んだソ連の責任もあるとするもので、ナチスはニュルンベルク裁判で裁きを受けたが、ソ連の戦争責任についても調査する必要があるとした。

 これに対し、2020年6月プーチンはアメリカの雑誌に反論「第二次世界大戦戦勝75周年に向けた真実の教訓」を投稿した。

 第二次大戦の根深い原因は第一次大戦の結果から発生している。ヴェルサイユ条約はドイツをあまりに不当に扱った。ドイツは強盗されたも同然だ。ドイツ民族が辱しめを受けたことがナチスを生み新たな戦争の原因となった。よって米英ら西側がヴェルサイユ条約によって間接的にナチスを生み育て戦争を起こさせたとも言える。

 西側は独ソ不可侵条約こそ第二次大戦の原因だと主張するが、その前年の「ミュンヘン会談」こそが原因だと言いたい。西側はこれについては一言も触れないが。

 ミュンヘン会談で英仏はナチスと談合してチェコスロバキアの解体を許可した。ソ連はチェコスロバキアの同盟国であったがなんの相談も受けていない。

 英仏はナチスにチェコスロバキアの解体をさせ、ナチスの次なる矛先を西側でなくソ連に向けさせた。これによってソ連は英仏に大いに不信感を持った。このことが独ソ不可侵条約の背景にある。さらに言えば当時ソ連は対ドイツ西部戦線だけでなく、対日本東部戦線もかかえており、二正面作戦を避けるため独ソ不可侵条約を結んだという事情もあった。

 独ソ不可侵条約よりもミュンヘン会談でナチスに宥和的な姿勢をとったことが大戦の引き金になったと言うべきだ。

 ソ連は独ソ戦で多大な血を流し連合国の勝利に大きな貢献をした。対日戦もヤルタ合意に従ったものだ。

参考文献=江崎道朗『日本人が知らない近現代史の虚妄』

画像=あさご芸術の森美術館にて

 

2022-06-02

ウクライナの非核三原則

 ウクライナのソ連からの独立は1991年8月24日ですが、1990年7月16日ウクライナ最高会議は「ウクライナ主権宣言」を採択した。独立に向けて国家の方向性を打ち出したものと言えます。その中でウクライナは非核三原則を発表した。これを採用する国は日本とウクライナのみです。なぜウクライナは非核三原則を採用したのか?
1990年当時、ソ連崩壊前の段階では、待ちに待った冷戦の終結、それに伴う国際協調の雰囲気が強く、人々が「平和主義」「中立主義」という理想を抱いた。これまでのソ連に対する忠誠心・緊張感が消滅しいわば「平和ボケ」の状態になった。
1990年代初頭ウクライナは世界第三位の核戦力を保持していた。2800~4200発の戦術核弾頭、176発の大陸間弾道ミサイルを持っていた。ソ連崩壊とともにウクライナ国内にある公的財産はすべてウクライナ国家が所有するはずであるが、ウクライナは非核三原則を忠実に実行した。1992年までにほぼすべての戦術核兵器はロシアに輸送された。1994年ウクライナは核拡散防止条約に加盟した。1996年2月最後の核弾頭がロシアへ輸送され、ウクライナは非核国となった。
ではなぜウクライナの非核化は迅速に進んだのか?
当時ウクライナの大統領・最高会議議長から官僚まで支配層は、すべて元共産党員であった。ソ連共産党に対する忠誠心のみで生きてきた彼らは、ウクライナに対する愛国心を持っていなかった。彼らにとってウクライナ国家は権力をむさぼり私腹を肥やすための道具であった。またソ連共産党の中で有能な人はモスクワに集まり、ウクライナのような「地方」止まりの人は有能ではないことを意味していた。
さらにソ連時代にはモスクワの共産党中央委員会の決定を実行さえしていればよく、自分で大きな決定をしたこともなかった。愛国心がなく、堕落した、無能な元共産党員たちは核兵器という厄介なものを一刻も早くなくし、楽に仕事がしたかった。
またウクライナの非核化にはアメリカの意向が大きかったと言えます。
アメリカをはじめ欧米諸国はソ連末期のゴルバチョフ書記長の民主化・自由化の政策や国際協調外交に賛同し、アメリカは経済支援を行なった。アメリカはソ連崩壊後はロシアを支援したが、旧ソ連圏の管理をロシアに託し、旧ソ連諸国を相手にしなかった。アメリカは旧ソ連の核兵器はロシアが受け継ぐべきものと考えた。アメリカは経済制裁や国際社会からの追放をちらつかせウクライナに核の放棄を強硬に迫った。今日のウクライナの悲劇の遠因の一つとしてロシアを偏重・優遇しすぎたアメリカの誤った政策があったと言えます。
参考文献=グレンコ・アンドリー『プーチン幻想』

2022-05-03

師アンドロポフ

 ユーリ・アンドロポフはソヴィエト共産党書記長をブレジネフの後任として1982年11月から1984年2月に死去するまで務めた人物ですが、今その思想と行動を検証すべき人物ではないかと思います。

 1954年アンドロポフはハンガリーのブダペスト駐在ソヴィエト大使となった。1956年10月23日ハンガリー動乱が起きた。1953年のスターリン死後、フルシチョフのスターリン批判もあり、共産主義に対する抗議運動が高まった。アンドロポフはこの事件を「反革命・反社会主義の暴動」として非難し、進歩的なナジ・イムレ政権の転覆を企てた。
アンドロポフはソ連軍が撤退したと虚偽の情報をナジに伝え、さらに国防相を夕食に招待しKGB暗殺部隊を乱入させて殺害した。ナジはユーゴ大使館に避難したが、アンドロポフは恩赦を与えると虚偽の通達をしてナジが出てきたところを逮捕、後に秘密裁判にかけて処刑した。
ハンガリー動乱では2500人以上の国民が死亡し20万人が国外に逃れ、アンドロポフは「ブダペストの虐殺者」と呼ばれた。
1967年から1982年までアンドロポフはKGB議長を務めた。1969年ブレジネフ書記長暗殺未遂事件では狙撃犯を「狂人」と断定、精神病院に強制収容した。その後数十人の反体制派の人物が「精神病」を口実として精神病院に収容された。アンドロポフは「人権運動はソヴィエトの国家基盤を弱体化させる帝国主義の陰謀である」と言っていた。
アンドロポフはKGBでの部下への訓示で「社会主義と資本主義の対決の戦場は全世界であり、社会生活の全局面にわたる。平和共存と言ってもあらゆる戦線における厳しい戦いが続くことに変わりはない。KGBに休戦などありえない」と語った。
1975年にKGB入りしたプーチンがアンドロポフの.厳しい指導と謀略理論から強い影響を受けたことは確実といえます。
そしてアンドロポフの思想の基にあるのはレーニンの思想ではないか。「相手を説得するのではなく相手の戦列を打ち破る。相手の誤りを正すのではなく相手を破壊し相手の組織を地上から一掃する」
プーチンは最も尊敬する人物としてユーリ・アンドロポフを挙げており、サンクトペテルブルク市街地にはプーチンが建てたアンドロポフの銅像がある。

前回参考文献=朝日新聞国際報道部『プーチンの実像』

今回参考ブログ=藤谷昌敏 『世界に理解されないプーチンの思想と論理』

画像=万博記念公園 日本庭園 深山の泉

 

2022-04-14

コソボ紛争

 2006年7月ロシアは初めて主要8か国首脳会議(G8サミット)の議長国を務めることになり、プーチンは気分が高揚していた。サミット最終日の記者会見で対米関係について訊かれ「私たちの関係は根本的に変わった。もうお互いを敵視する関係ではなくなった」と言っていた。
 プーチンは「ユーラシア経済連合」を夢見ていた。ヒト・モノ・サービスの自由な移動を認めるEUのような経済連合で、将来的にはEUと「ユーラシア経済連合」を連携させ「リスボンからウラジオストクまでの自由経済圏」を実現させたい。これはあくまで経済連合であって旧ソ連のような政治的な関係ではないとしていた。
 しかし2012年12月当時アメリカの国務長官であったヒラリー・クリントンは警戒心をあらわにした。「呼び方がどうであれこれはソビエト連邦化を目指すものであり、私たちはそれを止めなければならない」 クリントンの発言はプーチンの容認できるものではなく、2016年のアメリカ大統領選挙でロシアは陰からトランプを支援しクリントンを妨害した。
 2014年ロシアはクリミアを併合しG8から追放された。
 プーチンの論理によれば、欧米がコソボでしたことを我々がクリミアでしただけのことだ。なのにロシアだけが経済制裁を受けている。これは不公平だ。
 1999年セルビアの自治州コソボで、セルビア治安部隊がアルバニア系住民を弾圧、非人道的行為を繰り返しているのをやめさせるため、「人道的介入」としてNATOが「国連安保理の決議なしに」空爆した。コソボは2008年独立した。ロシアはセルビアを支援する立場からコソボを国家承認していない。
 2014年ロシアは、クリミアでロシア系住民がウクライナ政府から弾圧されているという理由で軍事介入し、クリミアを併合した。
 G8サミットの議長を務めた頃と大きく変わってしまった。