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ブログ

2023-05-07

重森三玲の集大成

 約20年ぶりに松尾大社庭園を訪れ、感じ方も変わったと思いましたので感想を書いてみます。

 重森三玲の庭はかなりの程度共感できるが、しかしちょっとやりすぎでは?とも思っていました。

 まず庭の構成要素が立石と砂利と地模様、苔かサツキだけだったりと、構成が明快すぎて単純に見えてしまう。これに関しては、まず護岸石組みをなくし、代わりにモルタルで地模様を描いたり、護岸をゆるやかな法面にしてそこに張石をするなどし、そのうえで築山や島に石組みをすることにより、石組みに視線を集中させる目的のためであったと考えられます。

 また立石が多すぎると感じた点に関しては、重森としては立石こそが石の特徴・魅力・勢い・表情等を最も訴えやすいと考えたのではないかと思います。そして立石に変化を持たせるため高さ・傾きの角度を変え様々な石の組み方をした。

 とは言えなかなかその良さがわからない石組みが多いのも事実であり、私はこの庭で一番好きな石はどれだろう?と考えたりしました。するとなんでもなく思っていた石が好ましく思えることもあります。

 地模様に関しては、日曜美術館で見た歌川広重の作品(洗馬宿)に雲や岸の表現に重森三玲的なところがあり、景色の理想形を描いている点で共通していると思いました。

 そして今回の松尾大社で一番良かったのは、重森三玲の三尊石組でした。これは大沢の池・名古曾の滝を思わせる重厚な三尊石組でここは共感できたところです。

 

 

 

2023-03-31

戦争によって利益を得る者

 文久3年(1863年)孝明天皇が攘夷実行の勅命を発したことから、萩藩(長州)は5月に外国船に無差別発砲をした。さらに7月には薩摩と英国との戦争が勃発した。

 そしてこのタイミングで横浜にイギリス系銀行、セントラルバンク、マーカンタイルバンク、コマーシャルバンクが、さらに翌年にはオリエンタルバンクが支店を開設した。

 戦争が始まった危険な時期になぜ? というより彼らは戦争を待ち望み、ついにその時が来たと判断し横浜に上陸した。

 戦争が始まりまずグラバー商会やジャーディン・マセソン商会が中古の戦艦を高値で売りさばき大儲けした。戦争により武器商人が潤う。しかし問題はそこにとどまらない。

 戦争が起きると戦争当事国の通貨は暴落し、国際決済で使えなくなる。そして横浜に進出した外資系銀行が貸し出す国際流通通貨(当時はメキシコ・ドル)で決済せざるを得なくなる。これによらなければ銃1丁買えない。外資系銀行の融資に頼らなければ戦争ができない。逆に外資系銀行からすれば戦争をしてもらわなければならない。

 戊辰戦争後、士族の反乱が続き、明治10年には西南戦争が勃発、明治8年の江華島事件後は朝鮮での紛争が続きついに日清戦争へとつながっていった。幕末以来日本は戦争が続く状態となった。

 余談ですが司馬遼太郎によって有名になった坂本龍馬の暗殺犯ですが、武力討幕をしたかった薩長とりわけ薩摩にとって、大政奉還などという卑怯なやり方は許せない、その仲介をした龍馬は生かしておけないとなった、と論理的には言えるそうです。

参考文献=苫米地英人『明治維新という名の洗脳』

画像=京都 大原 三千院

 

2023-02-25

強気なポーランド

 第一次世界大戦後のベルサイユ条約により、ポーランドにバルト海への出口を与えるため、ドイツ領の西プロイセンがポーランドに割譲された。これによりドイツ領東プロイセンは飛び地となった。

 西プロイセン(ポーランド回廊)には多数のドイツ人が居住しており、1939年ヒトラーはダンツィヒの返還とポーランド回廊への鉄道と高速道路の建設を求めたが、ポーランドは強気に出てドイツとの交渉をはねのけた。

 1939年9月1日にナチスはポーランドに侵攻するが、その直前には西プロイセンのドイツ系住民六万人がポーランド人に虐殺されていた。

 ポーランドが強気でいられたのは戦争になっても英仏両国から支援の約束を取り付けていたからであった。さらに米国のフランクリン・ルーズベルトも英仏側に立って参戦するとの意向を示していた。これは現在のゼレンスキーが欧米からロシアと妥協するなと圧力をかけられている状況と同じです。

 また米国は独ソ不可侵条約の秘密議定書の内容(独ソでポーランドを分割)を知りながらポーランドに伝えなかった。

 その後英仏は約束通りドイツに宣戦布告したものの、ポーランドに援軍は送らず、亡命政府をロンドンに受け入れただけであった。ヒトラーと組んだソ連が東側からポーランドに侵攻したことは黙認した。ポーランドはドイツ・ソ連・スロバキア・リトアニアの4か国に分割占領された。ポーランドは英仏米に騙された。ポーランドの指導者は愚かであった。

 ヒトラーは英国との和平を望んだが、チャーチルは交渉を拒否し、戦争を継続した。チャーチルが強気でいられたのはルーズベルトの米国が参戦してくれると信じていたからであった。ルーズベルトは武器貸与法を成立させ武器支援をしていたが、日本を石油禁輸で締め上げついに真珠湾攻撃をさせた。これで米国世論は大きく変わり参戦に踏み切れた。

 1943年のテヘラン会談でスターリンはルーズベルトに、ソ連国内の民主化を約束し、その見返りとしてポーランドに共産主義政権をつくることを認めさせた。スターリンにまんまとやられた。

 プーチンが侵攻に踏み込んだ理由もドンバス地方でのロシア系住民の虐殺であったし(ウクライナに不利な情報は一切報道されないが)、小国が大国の支援を頼りにするところも同じである。

参考文献=渡辺惣樹・福井義高 『「正義の戦争」は噓だらけ』

画像=京都 大原 宝泉院

 

 

2023-01-01

大家族社会

明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。
なかなか読書できなかったり現場が忙しかったりでご無沙汰しました。
さて「広義のロシア」は「大ロシア(ロシア)」「白ロシア(ベラルーシ)」「小ロシア(ウクライナ)」から成り、広義のロシアからするとウクライナはロシアの一部と考えられる。

しかし人類学的にはロシア社会とウクライナ社会はかなり違っている。ロシアの農村社会は家父長制の大家族であり、権威に従うことに慣れていた。このことが共産主義と親和性を持っておりロシア革命を実現させた。大家族(共同体家族)の社会は、権威主義的な社会で平等概念を重んじ集団行動を得意とする。こうした社会がプーチンのような権威主義的な指導者を支持する。

他方ウクライナ(小ロシア=ウクライナ中部)は核家族の社会であり個人主義の社会である。ロシアよりはイギリスやアメリカの社会に近い。このためロシア人はウクライナ人を「少しとがったロシア人、自分勝手でアナーキー、ポーランド人みたい」と見ている。

またウクライナは中部(小ロシア)とほぼポーランドの西部、ロシア語圏を含む東部・南部、この3つの地域の社会がそれぞれかなり違っている。

さらにウクライナでは、高等教育を受けた労働人口がドイツをはじめ西欧諸国に大量に流出、独立以来30年で人口は5200万人から4500万人に激減した。

今後もしウクライナが戦勝したとしても国家の再建は前途多難は必至。

 

参考文献=エマニュエル・トッド『第三次世界大戦はもう始まっている』

 

2022-10-23

バイデンの誘導

 西側の情報ではウクライナに不利なことは無視され報道されないので、今までウクライナ情勢の本当のところはなかなか見えてこなかった。最近やっと真相が見えつつあるように思いますので整理します。

1 2014年2月のマイダン革命により親米政権が成立。報復としてプーチンはクリミアを併合。
2 しかし親米政権に東部ドンバス地方の親露派住民が反発、内戦が起こる。

3 この内戦を停止させるために、2014年9月に例の「ミンスク合意」が結ばれた。しかし戦闘は止まず2015年2月には「ミンスク2」が締結された。

4 2019年に大統領に就任したゼレンスキーは、ロシアに有利との国内の反発もあり「ミンスク合意」を履行しないことを決めた。

5 2021年3月24日ゼレンスキーはクリミア奪還を目指すとの政令を出し、軍備を南方に向け配置した。同時に黒海・バルト海周辺でNATOの軍事演習も行われた。ロシアも対抗して軍事演習を実施した。

6 2121年10月ウクライナはドンバス地方の燃料庫をドローンで攻撃した。これは「ミンスク合意」違反の行為であった。

7 2022年2月11日ベルリンで独・仏・ウクライナ・露の四者会談が行われた。何の成果もなく、ウクライナは「ミンスク合意」順守を拒否した形となった。

8 2022年2月16日以降ウクライナ軍はドンバス地方の住民への砲撃を続けた。

9 プーチンは、ドンバス地方の親露派住民が殺されるのを傍観するか、軍事介入するかの選択を迫られた。

10 2022年2月17日アメリカのバイデン大統領は、ロシアが数日以内にウクライナを攻撃する可能性があると発表した。バイデンがゼレンスキーに圧力をかけてドンバス地方を攻撃させ、プーチンが反撃するよう誘導したのであった。

参考文献=高島康司『グレート・リセット』

 

2022-10-02

中東の狂犬

 前回同様アメリカの介入についてみていきます。
エジプトとチュニジアに挟まれたリビアで1969年から2011年まで権力を握ったカダフィ大佐については、その独裁と非民主主義国家というイメージしかないが、実際の内政はどうだったのか?カダフィの功績を列挙します。
・石油の利益によりリビア国民にアフリカ最高水準の生活をもたらした。
・教育・医療費無料
・女性の教育・就労を奨励
・新たな就農者には土地・家・家畜・飼料を無料支給
・灌漑設備により砂漠の緑地化
ただカダフィは選挙権を認めなかった。
2010年にチュニジアから始まった「アラブの春」はエジプト・リビアにも波及した。大統領は失脚したが殺害まではされなかった。しかしカダフィだけは殺された。カダフィが殺害されたとき当時のオバマ政権の国務長官ヒラリー・クリントンは狂喜した。2012年のアメリカ大統領選挙を控えていたオバマと、2016年の大統領選挙に出たクリントンにとって、リビアの民主化を達成したという外交的成果が欲しかった点では一致していた。ではなぜカダフィだけが生存を許されなかったのか?

 2009年カダフィはアフリカ連合の議長をしていたが、石油をドルで決済するというペトロダラーシステムに挑戦し、リビア通貨ディナールに金兌換性を持たせ石油決済をディナールでするよう提案し、エジプトとチュニジアが賛同した。これはアメリカのドルを脅かすものであった。

 カダフィ政権崩壊後、リビアはイスラム主義勢力の西部と世俗派の東部に分裂し、内戦状態に陥った。トルコや旧宗主国のイタリアが西部を、ロシアやエジプトが東部を支援している。カダフィ時代にくらべ、治安も経済も格段に悪化した。

 

 

画像=瑠璃寺(佐用町)の渓谷

 

2022-08-25

ヌーランド女史

 ヴィクトル・ヤヌコーヴィチは1950年に生まれ1967年暴力団に加わり強盗事件に関わり懲役刑に服した。1970年に再び強盗事件により懲役刑の判決を受けた(1978年に裁判所は判決を無効とした)。その後人生は大きく好転し2002年には首相になり、2004年のウクライナ大統領選挙に立候補した。対立候補は同じヴィクトルの名を持つユシチェンコで前政権下の汚職や非民主的な政治手法を攻撃した。
 2004年9月ユシチェンコの顔はダイオキシン中毒とみられるあばたに覆われた。ユシチェンコは対立候補またはロシア連邦保安庁の犯行と主張した。
 11月の選挙の結果ヤヌコーヴィチの勝利が発表されたが、ヤヌコーヴィチ側の選挙不正が明るみに出、大規模な抗議運動が起きたーオレンジ革命。選挙をやり直すこととなり12月の選挙でユシチェンコが勝利、ユシチェンコが大統領となった。
 しかしユシチェンコは首相のティモシェンコと対立し、天然ガス問題で政権批判が強まり2006年にはヤヌコーヴィチが首相に返り咲いた。その後ユシチェンコの支持は低下し2010年の大統領選挙ではヤヌコーヴィチが当選した。ドネツク州に生まれたヤヌコーヴィチは親露派であったが、議会はEUとの政治・貿易協定を望んだ。2013年ウクライナ政府はEUとの仮調印をしたが、ヤヌコーヴィチは署名を拒否した。調印予定日の11月21日キーウの独立広場に多数の市民が集まり始め抗議行動は長期化し、11月末には政府が機動隊を投入し負傷者が出たことからさらに抗議行動は過激化し、火炎瓶を使うに至った。そのデモ隊の先頭にいたのは極右政党の行動隊などいわゆるネオナチであった。
 2014年2月21日ついに大統領官邸と議会が反体制派に占拠され、ヤヌコーヴィチはロシアに亡命したーユーロ・マイダン革命。
 マイダン革命の最中、抗議派にクッキーを配っていたのが当時のオバマ政権の国務次官補ビクトリア・ヌーランドであった(今のバイデン政権の国務次官)。
 このことが意味することはーヤヌコーヴィチを追放し親米政権を樹立するためアメリカが動いていた可能性が高い。実際6月に大統領に就任したポロシェンコは親米の人物であった。このようにウクライナ情勢は一方的にプーチンが悪いとするアメリカの見方のみを信じることも危険であるといえる。

2022-08-03

ネオナチとは

 ロシアはウクライナ政権を「ネオナチ」と非難した。大統領がユダヤ人であるのになぜナチス?このことについて追及したいと思います。
 1909年に生まれたステパン・バンデーラは1929年ウクライナ民族主義者組織に入党、33年に幹事長となる。当時西ウクライナへの同化政策・弾圧を進めていたポーランドに対する反対運動を展開した。その過程で大臣暗殺事件に関与したとして逮捕・服役した。1939年第二次世界大戦が勃発しポーランド政府が崩壊し、バンデーラはドイツ軍により解放され前記民族主義者組織に復帰、41年には総裁となった。
 バンデーラは「敵の敵は味方」の論理によりソ連に対抗する必要からナチスへの接近を画策し、「ウクライナ国家再生宣言」を発表したが、当時ウクライナを占領していたナチスにより強制収容所に送られた。これによりバンデーラは独ソ双方と戦う象徴とされた。
 戦後はウクライナ蜂起軍と連携したが、1959年KGBにより暗殺された。
 2004年にウクライナ大統領になったユシチェンコはバンデーラに「英雄」の称号を与えた。2014年にウクライナ大統領となったポロシェンコはバンデーラのみならずウクライナ民族主義者組織、ウクライナ蜂起軍も「英雄」として讃え、2016年にはキーウの「モスクワ通り」は「ステパン・バンデーラ通り」に改名された。
 ロシアはバンデーラをソ連からのウクライナ独立を主張した反ソの「ファシスト」と認定しておりバンデーラを英雄視するウクライナ人を「ネオナチ」としているようだ。

参考文献=佐藤優『プーチンの野望』

2022-07-14

自作自演

 1999年8月7日チェチェン共和国の武装集団がロシア連邦の一部であるダゲスタン共和国へ侵攻した。
 チェチェンの大統領マスハドフは武装集団の侵攻を批判しロシアに和平を申し込んだ。
 しかし8月9日に首相代行に、16日に首相に就任したプーチンがこの機会を逃すことはなかった。
 9月、ロシアの4箇所で民間マンションが爆破され307人が死亡した。プーチンはチェチェンのテロリストによる犯行であると発表し、9月30日ロシア軍はチェチェン共和国の国境を超え、第二次チェチェン戦争が始まった。これによりプーチンは「強いリーダーシップを発揮できる指導者」とされプーチンの支持率は上昇した。
 しかし民間マンションの爆破はFSB(連邦保安庁)の謀略であり、プーチンの「自作自演」であったとされている。
 その証拠として9月13日の連邦議会下院議長の発言があげられる。「今朝ヴォルゴドンスクのマンションが爆破されたとの報告を受けた」。しかし13日に爆破されたのはモスクワのマンションであり、ヴォルゴドンスクのマンションが爆破されるのは16日つまり3日後のことであった。議長に報国した人物はヴォルゴドンスクでの爆破計画を知っていた。
 2022年2月17日ウクライナ東部ドンバス地方で親ロシア勢力が幼稚園を砲撃した。ロシア政府系メディアは「ウクライナ側の砲撃である」とフェイク情報を流した。
 翌18日には「ウクライナ軍の空爆がある」と喧伝した後、親ロシア勢力幹部の車両が駐車場で爆破され、さらに石油インフラが砲撃された。まるで事前に空爆を知っていたかのような、「絵に描いたような自作自演」。
 ドンバス地方で親ロシア系住民が虐殺されていることを理由としてプーチンはウクライナ侵攻を開始した。

参考文献=グレンコ・アンドリー『プーチン幻想』黒井文太郎『プーチンの正体』

 

2022-06-21

EU対プーチン

 2019年9月EUの欧州議会は「欧州の未来に向けた重要な欧州の記憶」決議を可決した。これは第二次世界大戦の原因としてナチスだけでなく、ナチスと不可侵条約を結んだソ連の責任もあるとするもので、ナチスはニュルンベルク裁判で裁きを受けたが、ソ連の戦争責任についても調査する必要があるとした。

 これに対し、2020年6月プーチンはアメリカの雑誌に反論「第二次世界大戦戦勝75周年に向けた真実の教訓」を投稿した。

 第二次大戦の根深い原因は第一次大戦の結果から発生している。ヴェルサイユ条約はドイツをあまりに不当に扱った。ドイツは強盗されたも同然だ。ドイツ民族が辱しめを受けたことがナチスを生み新たな戦争の原因となった。よって米英ら西側がヴェルサイユ条約によって間接的にナチスを生み育て戦争を起こさせたとも言える。

 西側は独ソ不可侵条約こそ第二次大戦の原因だと主張するが、その前年の「ミュンヘン会談」こそが原因だと言いたい。西側はこれについては一言も触れないが。

 ミュンヘン会談で英仏はナチスと談合してチェコスロバキアの解体を許可した。ソ連はチェコスロバキアの同盟国であったがなんの相談も受けていない。

 英仏はナチスにチェコスロバキアの解体をさせ、ナチスの次なる矛先を西側でなくソ連に向けさせた。これによってソ連は英仏に大いに不信感を持った。このことが独ソ不可侵条約の背景にある。さらに言えば当時ソ連は対ドイツ西部戦線だけでなく、対日本東部戦線もかかえており、二正面作戦を避けるため独ソ不可侵条約を結んだという事情もあった。

 独ソ不可侵条約よりもミュンヘン会談でナチスに宥和的な姿勢をとったことが大戦の引き金になったと言うべきだ。

 ソ連は独ソ戦で多大な血を流し連合国の勝利に大きな貢献をした。対日戦もヤルタ合意に従ったものだ。

参考文献=江崎道朗『日本人が知らない近現代史の虚妄』

画像=あさご芸術の森美術館にて