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ブログ

2019-01-17

洛中洛外図屏風

織田信長が上杉謙信に贈ったとされる『上杉本洛中洛外図屏風』に関して記します。

もともと『上杉本洛中洛外図屏風』は室町幕府第13代将軍足利義輝が盟友上杉謙信に贈るために狩野永徳に命じて制作させたものであった。義輝の意図は関東管領に就任した謙信に早く上洛して将軍を補佐せよということであった。

永徳が制作を始めたのが永祿7年(1564)末か8年初め。

しかし義輝は永祿8年5月に松永久秀に襲撃され横死する。

永徳は制作を続け義輝の百箇日の2日後9月3日に完成させた。永徳としては信長が新たな支配者になりつつあるのを見定め信長に献上したと思われます。

信長が謙信に向けて洛中洛外図屏風を京都から搬送させたのが天正元年(1573)の年末か翌2年の年始。同年3月には越後春日山城に無事到着しています。

当時足利義昭が武田勝頼、上杉謙信との軍事同盟締結により信長包囲網を結成することを企んでおり、信長としてはこれに対抗するため、友好関係にあった謙信の離反を防ぎたかったというのがこの屏風贈与の意図と思われます。天才絵師狩野永徳の洛中洛外図屏風のたどった数奇な運命といえます。(参考文献 藤田達生『本能寺の変の群像』)

2018-12-16

本能寺の変続き

前回の記事の中で若干の修正をしたい箇所が出てきました。

四国政策に関してですが、天正九年の段階で信長は紀州惣国一揆と結びついていた長宗我部から当時阿波を支配していた三好氏に乗り換えたと見られることがわかりました。

これは甥の秀次を三好康長の養子としていた羽柴秀吉の働きかけによるところが大きい。

さらに斎藤利三の妹が長宗我部元親の正室であったため、四国攻撃軍の出陣の前に変を起こしたとも考えられます。

徳川家康謀殺陰謀説に関しては本能寺の変当日明智軍の兵卒は京市中への軍事行動の目的を知らず、信長の命令に基づいて家康を殺すのであろうと考えた、とフロイス『日本史』に書かれています。

しかし本能寺の変はどうしても反革命でありクーデターであることは否めない。

ではそもそも織田信長の革命とはどういう意義を持っていたのか、それを挫いた本能寺の変はどういう勢力を代表していたのか、その辺りはまた次回以降に。

2018-11-11

桔梗の旗揚げ

歴史の世界では今まで通説とされてきたことが、新しく発見された史料により覆されることがしばしば起こっていることはご承知の通りです。

垣根涼介『信長の原理』はフィクションとして考えることもできますが、最新の研究の成果を踏まえていると思われる、そういう新しい発見に満ちた小説です。

前回信玄と謙信に触れましたが、この小説のメインテーマはずばり本能寺の変です。

その原因あるいは要因、背景としてかなり新鮮な内容が書かれていましたのでここに取り上げさせていただきます。

要因その1

斎藤利三は以前美濃の稲葉一鉄に仕えていたが、一鉄と喧嘩別れし、それを明智光秀が引き抜いた。その後那波直治も稲葉家から明智家に移っている。一鉄にすれば明智家に二人も引き抜かれた。

一鉄は信長に直談判し二人を稲葉家に返すよう求めた。しかし斎藤利三はいまや明智家の筆頭家老で侍大将。光秀は当然拒否。そこで信長が下した命令は、なんと斎藤利三の切腹。

光秀はこれを利三に伝えることもできず悩みに悩む。

要因その2

四国に関して信長は長宗我部元親に切り取り次第とし寛容な態度を示し、光秀に長宗我部との取り次ぎ役を命じ斎藤利三は元親とは縁戚関係にあった。

しかし天正10年5月頃には態度を豹変させ織田信孝を総大将に四国討伐軍を編成し出撃を準備中であった。

長宗我部との取り次ぎ役である光秀はまさに面目丸つぶれであった。

要因3

天正10年5月信長は徳川家康を安土城に招待。

家康はさらに京、堺を見物する。

信長は光秀に堺で家康を謀殺せよと命令。しかし光秀は長年同盟を結んできた家康を殺せば人心は信長から離れるとして拒否。

この信長の用済みと判断した人間に対する冷酷過ぎる仕打ちにショックを受け、やがては自分も用済みとして切り捨てられると、これまでの佐久間信盛の追放や荒木村重の謀反など多数の実例に鑑み悲観的に考えた。

主にこの3つの要因が挙げられていましたが、明智軍の中核を占めるのは500年近くの歴史を誇る土岐氏の系統に属する美濃源氏。織田氏という尾張の出来星大名に征服されたものの桔梗紋のもとに強い結束力で尾張者に対抗心を燃やしていたとも言えます。

2018-10-16

上洛

ところで先日歴史小説を読んでいてまさに目から鱗が落ちるという思いがしたので、それを転載したいと思います。

信長に初めて謁見した明智光秀が信長に「武田信玄と上杉謙信に上洛の意思はあるか?」と問われ

「そもそもこのお二人に天下を志す明確なご意思があれば、過去の十年にわたり地味痩せた川中島を奪い合って五度も合戦をするなど、およそ考えられぬ愚行でございます」

「信玄公におかせられましては十五年以上も前に信濃の大部分を手中にしてございます。その時から上洛を第一義に考えておられれば、とうの昔に南信濃から隣国美濃へと侵略を開始されたはず。それをせずして北信の片田舎にこだわり続けられたは、上洛よりもまず一国一国ごとの領土拡大を優先して考えておられるからでございます。その領土が拡大を続けた結果上洛につながるような機運が訪れれば上洛してもよい。その程度の意欲でございましょう」

もし、上洛が戦国武将最大の目標とするならば、上洛という一点に絞って見るならば、信玄も謙信も極めて凡庸としか見えない。信長はその観点から見れば先が見えている、明確な目標を持っている。

この明確な目標というところが

造園にしてもなんの活動にしても生きて行く上で、一番の勘所だと今更ながら再認識しました。

2018-09-17

ハプスブルク家

写真はクロマツ移植後

ところで先日プラド美術館展に行き、フェリペ4世の狩猟服姿の肖像画に猟銃の長さを短く描き直した跡を発見し、王の権威を高めようとする作者ベラスケスの意図が見えてきました。

その後ミュージアムショップでハプスブルク家の歴史の本を買い、当時のスペインが太陽の没することのない帝国、つまり南北アメリカ大陸をはじめ世界中に植民地を持つ大帝国であったこと、当時のスペイン王朝がハプスブルク家の王朝であったことを知り、マリーアントワネットぐらいしか知らなかったハプスブルク家の650年にわたるヨーロッパ支配の歴史について興味をそそられました。

今年買った本のなかで最も面白い本となりました。

2018-08-11

悪戦苦闘

前回投稿からはやひと月が過ぎようとしています。

その間、伐採作業に苦戦したり緑地の除草作業をなんとか乗り切ったと思えば今度は街路樹の剪定除草に悪戦苦闘。

それというのもすべてこの暑さのせいとばかりも言えない。

やはり苦戦や失敗の原因を突き詰め、二度と同じ過ちを犯さないことが最も重要と思われます。

この場で一々細かく述べることは差し控えることとしますが、楽観的過ぎる見通し、やはり暑さのせいで考えるのが面倒になっているのかもしれません。

2018-07-15

猛威

この度の豪雨からはや一週間が過ぎ多数の方が犠牲になり、住居を失って避難され不自由な生活を強いられている方々またボランティアで復旧活動に従事されている方がおられるのを知り、本当に頭が下がる思いです。

大雨と言いその後の猛暑と言い自然の猛威の恐ろしさを改めて思い知らされました。

自然は時に素晴らしい景色を見せてくれて人を感動させ、また自然の恵みを受け取って感謝させたり、しかしその猛威をふるって人の命を奪うこともする。

その意味でやはり自然の猛威から身を守る対策を万全にしておかなければならない。自然は自然のままで素晴らしいなどと言ってはいられない。

この問題は庭園に関しても言われてきたことで、抽象的な庭園は自然から遊離しているのではなく、自然の理想の姿を人工的に創造しているということです。

しかしここのところは大変難しく、自然の姿を写実的に表現するか抽象的にするか。

そもそも庭園という時点で人工的なものではあるのですが。

2018-07-03

夏季大学

先日姫路文学館の夏季大学の一回目講座を聴きました。講師は数字者の藤原正彦先生。

ところどころユーモアを交えながらの話の概要は西洋文明に疑問符を投げかけ、明治以来のいわゆる西洋かぶれの弊害を示されたといったところでしょうか?

民主主義の政治体制においては国民一人一人が教養を身につけ政治判断のできる知性を持たなければならないとされていました。その教養の中身としては日本の伝統的な文学その他の芸術を主に想定されているようでした。

このような話を生で聴けたのは大変貴重な経験でした。

2018-06-07

街路樹剪定

この時期街路樹剪定と除草の季節です

2018-05-27

宿根草その後

マルチバークを敷き詰めました

防草と保温保湿、微生物と根の成長を促すなどの効果があるとされています