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ブログ

2021-05-25

パレスティナ問題


 パレスティナを支配していたオスマン帝国は19世紀後半には弱体化しており、1894年フランスで起きたドレフュス事件(ユダヤ人大尉ドレフュスの冤罪事件)をきっかけにシオニズム運動(ユダヤ人のパレスティナへの帰還を目指す運動)が起きた。

その後第一次世界大戦でイギリスは戦争の資金調達に苦しみ、ユダヤ人財閥ロスチャイルドに援助を依頼した。ロスチャイルドは援助と引き換えにパレスティナにユダヤ人国家を建設することを約束させた(バルフォア宣言)。

しかし第一次大戦の頃にはすでにエネルギー動力は石炭から石油に移行しており、イギリスは油田を所有するアラブ人の要求にもこたえる必要があり、アラブ人にも居住地を約束した(フサイン・マクマホン協定)。(イギリスのいわゆる二枚舌外交)

第一次大戦後、イギリスはユダヤ人のパレスティナ移住を進めたが、追い出されたアラブ人とユダヤ人は武力衝突を起こした。

イギリスは混乱を収拾するためユダヤ人のパレスティナ移住を制限したため、イギリスに失望したユダヤ人はアメリカでロビー活動を行ない、アメリカにユダヤ人国家建設の支援を約束させた。

1948年ユダヤ人国家イスラエル成立。イスラエル建国後アラブ人はヨルダン川岸地区とガザ地区に移住させられた。

ガザ地区を主導する過激派ハマスによりイスラエルとの対立は激化している。

ちなみにですが、イスラエルの面積は22140k㎡ 四国よりは広く、九州よりは狭い。

参考文献=宇山卓栄『「民族」で読み解く世界史』

画像=先日植栽した花壇

 

2021-05-15

ユダヤ系金融資本と鋼鉄の男ジュガシヴィリ

中世以来ユダヤ人の多くは差別が少ないポーランドに住んでいたが、18世紀にロシアに併合された。

1853年のクリミア戦争でロシアは完敗したが、イギリス軍の蒸気船を見てロシア人は仰天、ロシアは近代化を急いだ。

しかし資金面ではユダヤ系財閥ロスチャイルドの資本に頼らざるを得なかった。ロスチャイルドの投資によってロシアの皇族・貴族は私腹を肥やしたが、一般市民には富が行き渡らず貧富の差が広がり、民衆の不満が高まった。

民衆の不満が政府に向くことを恐れたロシア政府は「富の不均衡の原因はユダヤ人にある」と喧伝した。ロシア政府はいわば「恩を仇で返した」。

そのような時皇帝アレキサンドル2世が暗殺される事件が起きた(1881年)。犯行グループの中にユダヤ人がいたことからロシア全土で民衆がユダヤ人を襲撃する事件が起きた。この時ユダヤ人が逃げ延びた先がヨーロッパとアメリカであり今アメリカに住むユダヤ人のほとんどはロシアからの移民である。

第一次世界大戦中、レーニン率いるボリシェヴィキが帝政ロシアを倒した(ロシア革命)。レーニンは母方がユダヤ人であり、赤軍司令官トロツキーもユダヤ人であった。またボリシェヴィキに資金を提供したのも国外のユダヤ資本であった。乱暴に図式化するとロシア帝国に迫害されたユダヤ人がロシア革命でロシア帝国を倒した。

レーニン死後ユダヤ人トロツキーとグルジア(ジョージア)人スターリンの権力闘争が起き、スターリンの大粛清によりユダヤ勢力は共産党から一掃された。またスターリンはユダヤ資本で開発した鉄道や油田を次々に接収、国有化した。それを見ていた国外のユダヤ系金融資本は怒りに震えた。「スターリンは恩を仇で返した」と。

第二次大戦後、米ソは冷戦に突入するが、その根本にはアメリカに住むユダヤ人のロシアに対する敵対心があった。

参考文献=茂木誠『ニュースのなぜ?は世界史に学べ』

画像=炭俵を積んだ大八車(村岡ファームガーデン)

2021-05-02

ウイグル

ウイグルではイスラム教信仰を厳しく弾圧され、ウイグル語やウイグル文化を教えることも制限され、中国語を強制されている。中国ではかつての一人っ子政策の影響で結婚できない男性が増えた。彼らをウイグル人女性と結婚させ、生まれた子供には中国流の教育を受けさせ、ウイグルの文化・宗教と切り離した。他方、ウイグル人男性は多くが収容所に入れられる。「民族浄化」という恐ろしい実態。

ウイグル人はトルコ系民族であり、トルコ人はもともとモンゴル高原北西部に住んでいた。彼らは突厥(とっけつ)と呼ばれ中国に侵攻したが、唐に敗れモンゴル高原からタリム盆地、ジュンガル盆地に移った。

8世紀にウイグルと名前を変えた。「ウイグル」とはトルコ語で「我、主君なり」。10世紀にイスラム教に帰依しイスラム商人との交易が栄えた。11世紀、トルコ人はさらに勢力を西に拡げ、アジアの西の端アナトリア半島にまで進出、セルジューク朝を建国。さらに16世紀にはオスマン帝国を建国し大発展した。

このようにウイグルはオスマン帝国につながるトルコ系民族であったが、中国清王朝全盛時代を築いた乾隆帝の積極的な対外遠征によりウイグル人居住地のタリム盆地、ジュンガル盆地は征服された。これらの土地は「新疆」(新しい土地の意)と呼ばれた。

参考文献=前回と同じ

画像=弊社植木畑(英国式庭園部)

2021-04-12

95ヶ条の論題

フィレンツェの黄金時代を築いたロレンツォ・デ・メディチの次男ジョバンニは財力にものを言わせ教皇の座を得た。レオ10世である。サン・ピエトロ大聖堂の改築工事を行うにあたり、資金不足に直面しドイツの金融財閥フッガー家から融資を受けた。

フッガー家は貸付金を回収するためレオ10世に、ブランデンブルク選帝侯の弟アルブレヒトにマインツ大司教の座を売るよう説得した。マインツ大司教は7選帝侯のうちの最高位でありその代金は教皇庁の予算1年分であった。

アルブレヒトにもそのような金を用立てることは困難であり、そこでフッガー家は贖宥状の販売を勧めた。弁舌巧みなドミニコ会修道士を連れてきて販売促進を図った。

もくろみは奏功し、フッガー家はレオ10世から貸付金と利子を回収し、アルブレヒトもマインツ大司教に就任しその後枢機卿になった。

この贖宥状に批判の声をあげたのが有名なマルティン・ルターである。

ところで15世紀にドイツの金属加工職人グーテンベルクが印刷を実用化しており、当時大量に印刷された書物は主に聖書であった。ルターは神の教えは聖書によって授けられると説いたが、その背景には一般庶民への聖書の普及があった。

また、そもそも中世以来カトリックの教会勢力はドイツ諸侯の領土の中に土地を保有し、諸侯が手出しできない独立圏を持っていた。諸侯と教会の利害は対立していた。

ルターの「95ヶ条の論題」はパンフレットとして大量に印刷されヨーロッパ中に出回った。ドイツ諸侯たちはルターのローマ・カトリック批判を利用し教会の腐敗をキャンペーン化した。

1546年、神聖ローマ帝国皇帝カール5世とカトリック教会勢力はシュマルカルデン戦争でドイツ諸侯に敗北、以後ルター派諸侯たちは自国領土内で独裁権を固めた。他方、皇帝の権力は弱体化し、ドイツでは分裂状態がその後300年以上続いた。

参考文献=宇山卓栄『「宗教」で読み解く世界史』

画像=赤穂城跡本丸庭園

2021-03-29

スエズ運河とイギリス

1858年、万国スエズ運河会社が創設され、フランスが資金を、エジプト総督からも資金と労働力の提供を受け、1869年スエズ運河は開通した。そもそもフランス人外交官・技術者レセップスが乗馬を教えて親しくなったエジプト総督サイードの支持を得たことが運河建設の発端であった。

工事は10年かかり、クフ王のピラミッド30個分の砂を掘り出すという難工事で、12万人のエジプト人が工事の犠牲となった。建設工事に約1億ドルかかったが、砂漠の巨大水路であることにより、その後の補修・修理にさらに巨額の費用がかかった。

エジプトは当時の南北戦争の影響で価格が高騰していた綿花に目をつけ、綿花の栽培で運河の費用を賄おうとした。しかし南北戦争後、綿花価格は大暴落しエジプト財政は悪化した。

1874年当時スエズ運河を通過する船の総トン数の73%をイギリス船籍の船が占めていた。またスエズ運河により、ロンドンとインドのポンペイとの距離は5300km、当時の時間で24日短縮でき、イギリス・インド間の距離は3分の1になった。アジア貿易を支配するイギリスにとってスエズ運河は垂涎の的であった。

1875年エジプト総督はスエズ運河の株式の4割を売りに出した。フランスは普仏戦争でビスマルクのプロイセンに敗れ、その賠償金の支払いのため運河を買収する余裕はなかった。

イギリスの首相ディズレーリはスエズ運河株が売りに出されたという極秘情報を得ると、休会中の議会には相談せず、独断でユダヤ人財閥ロスチャイルドから4000万ポンド(2000万ドル)を借り入れ運河株を購入した。ロスチャイルドから抵当の話が出されるとディズレーリは即座に「イギリスを抵当にする」と言ったとされている。

参考文献=宮崎正勝『商業から読み解く「新」世界史』

画像=整備中の弊社車庫横植木畑(日本庭園部)

2021-03-01

Bismarck

先日ヒロシ氏のラトビアを旅する番組を見ていると「ニシンの塩漬け」が出てきてニシンの健在を知り少し嬉しくなりました。

さて第一次世界大戦に至る背景・要因として挙げられるのが、新興国ドイツの急成長です。当時の覇権国イギリスが綿織物工業を中心とする軽工業が主要産業であったのに対し、ドイツは重工業により急成長し、第一次大戦直前にはGDPでイギリスを抜いており、ヨーロッパのパワーバランスを崩しかけていた。

1815年のウィーン会議の結果、ドイツ地域は35の君主国と4つの自由都市から成るドイツ連邦とされた。そのドイツ諸国を統一し1871年ドイツ帝国をつくったのがビスマルクです。

1873年、訪欧中の日本の岩倉使節団はベルリンでビスマルク宰相と会談した。その席でビスマルクは「諸君は列強諸国と結んだ不平等条約の改定をめざしておられる。しかし列強は自国の利益になるときは国際法や条約を守るが、自国の利益にならないと判断すればたちまち法を無視して武力に訴える。それが国際社会の現実だ。諸君は条約のことばかり気にするより、富国強兵に集中して実力をつけることに専念した方がよい。実力をつけて独立を守る、そうしないと列強の植民地獲得競争の餌食になってしまう」と述べた。

この会談で大久保、伊藤らはビスマルクに心酔し「我、日本のビスマルクたらん」と決意した。

当時ビスマルクはデンマーク、オーストリア、フランスの三か国をたった7年で矢継ぎ早に屈服させドイツ帝国を創立するという歴史的な快挙から2年しか経っておらず、ドイツ外交成功の絶頂期であった。明治の元勲たちは「外交・軍事政策はビスマルクのように大胆かつ攻撃的にやるべし」と思い込んでしまった。

しかしビスマルクはすでに「果敢な武断主義者」から「慎重で避戦的な勢力均衡主義者」に移行中であった。ドイツ統一後のビスマルクはそれ以上の領土拡張や侵略戦争は一切望まなかった。

明治~昭和期の日本人はドイツ統一前の果敢で武断主義的なビスマルク外交に大いに関心を持ち、その戦略を模倣した。しかしドイツ統一後の慎重に熟慮されたバランスオブパワー戦略には関心を持たなかった。

参考文献=前々回と同じ

画像=世界の梅公園(たつの市)

2021-02-12

貴族の変節でたどるフランス革命史

1754年最上層貴族の家系に生まれる。後にルイ18世に「君の家系は僕の家系と同じくらい古いね」と言われた。

1  1789年のフランス革命に「聖職者層」の代議員として参加したにもかかわらず「第三身分(市民層)」の反教会主義に同調し、カトリック教会の全財産没収を主張した。革命直前まで教会の既得権益を守るため奮闘していたのに、180度の転換であった。教会は全財産を没収された。

2 1792年、革命政府はルイ16世を処刑し、暴徒化したパリ民衆は貴族と王党派を無差別に虐殺し始めた。革命推進派であったはずの彼は革命政府に愛想をつかし、イギリスそしてアメリカに亡命した。

3 1794年、ロベスピエールの恐怖政治が終焉し、翌年、総裁政府が開始された。帰国した彼は外相のポストについたが、総裁政府の無能ぶりに見切りをつけ、当時イタリア戦線で華々しい戦果を挙げていた英雄ナポレオンに近づき、1799年ナポレオンの「ブリュメール18日」のクーデターに参加した。

4 1804年、ナポレオン帝政が開始され彼は外相を務めた。その後、外交・戦争政策でナポレオンと対立するようになった。ハプスブルク帝国、ロシア帝国、プロイセン帝国、大英帝国という当時の欧州四大帝国のすべてと長期戦争を続けるナポレオンは、ヨーロッパの敵としか思えなかった。

5 1813年ナポレオンのロシア遠征が大失敗となったことが明らかとなると、彼は「ブルボン正統主義」を提唱し、翌年5月ブルボン王朝が復活するとまたしても外相に就任した。

6 1815年には外相と首相を兼任したが、彼のこれまでの裏切りを忘れていなかったルイ18世の側近たちにより解雇された。失脚すると今度は「リベラルな反体制派」に再変身し、1830年の七月革命では反ブルボン派のルイ・フィリップを支持した。

このように裏切りと変節に満ちた彼の人生ではありますが、彼の政治思想は古典的な自由主義、立憲主義であったようです。シャルル・モーリス・ドゥ・タレーラン=ペリゴールが彼の姓名です。

参考文献は前回と同じ

写真は弊社の街路樹剪定状況

2021-02-01

第一次世界大戦に至る道

第二次世界大戦はナチスドイツのポーランド侵攻に始まった。ナチス台頭の遠因は第一次世界大戦でのドイツに対する巨額の賠償請求を含む戦後処理にあった。第一次世界大戦のきっかけはオーストリアの皇太子夫妻がセルビア人に狙撃されたことであり、最初はオーストリア、ドイツとセルビア、ロシアの戦争であったが列強が加わり大戦争になった。

この第一次大戦のオーストリアとロシアの衝突の前段階としてクリミア戦争でのオーストリアとロシアの対立があった。

クリミア戦争は1853年、当時衰退化していたオスマントルコからバルカン半島の支配権を奪おうとロシアが仕掛けた戦争であった。そこに英、仏が介入しバルカン地域の覇権を巡る戦争となった。オーストリアは1815年のロシア、プロイセンとの同盟を破棄して英仏側に参戦した。ロシアは敗北し、オーストリアに怨念を抱いた。このことが第一次大戦の伏線としてあった。

クリミア戦争によっていわゆるウィーン体制が崩壊した。ウィーン体制はナポレオン戦争後のウィーン会議で決定した、列強の勢力均衡によるヨーロッパの協調体制であった。ウィーン会議で敗戦国フランスを戦勝国と対等な地位に引き上げたのがフランスのタレーランであった。

タレーランはナポレオン帝政において外相を務めていたが、当時からナポレオンはいずれ大失敗するであろうと予想していてナポレオン失脚後の政治体制について構想を練っていた。

そして「正統主義」を原則として、ブルボン家は正統な王家であり、王権簒奪者である革命派とナポレオンはヨーロッパの平和に対する加害者である。よって被害者であるブルボン家は革命前のフランスの領土と権力を回復する正当な権利を持つ、という理屈を戦勝諸国に呑ませてしまった。

こうして1814年5月ナポレオン戦争終結のためのパリ条約においてフランスは革命前の領土をすべて回復することができたのであった。第一次世界大戦開戦の100年前のことです。

参考文献 伊藤貫『歴史に残る外交三賢人』

写真は通宝寺池(姫路市夢前町)

2021-01-14

グローバル化

昨年、大航海時代以後のイギリスの歴史を中心に投稿し、そのためにイギリスや植民地について勉強したお陰で少しだけ成長しました。

グローバル化の進んだ現代、世界について知ることは、世界の中の日本、その日本の中の造園を考える際にもヒントになるかも知れません。やや無理矢理の感はありますが、大きな視点からとらえたいという思いから今年も世界史の勉強を継続したいと考えています。

1870年代から第一次世界大戦が始まる1914年までは「第1次グローバル化」の時代と呼ばれます。蒸気船、鉄道、電信などの輸送通信技術の発達により、ヒト・モノ・カネが国境を越えて活発に移動し、世界経済の一体化が始まった。

グローバル化の結果として経済格差が拡大し、新興国に有利に働きドイツが急成長した。ドイツのGDPは1910年にはイギリスを抜いた。

現代の状況との類似点がいくつも見られます。格差の拡大、移民への敵対視、新興国の急成長、ナショナリズムを煽るポピュリズム政治家など。

参考文献『世界史としての第一次世界大戦』

写真は神鍋溶岩流

2020-12-30

ニシンの塩漬け

キリスト教では復活祭の前40日間は肉を食べることを禁止していた。ヨーロッパで肉の代わりとされたのがバルト海のハンザ都市リューベック(ドイツ)の特産品「ニシンの塩漬け」であった。

しかしニシンは気紛れでバルト海に来ないこともあった。そのとき常時多数の漁船を北海に派遣し流し網で大量にニシンを獲り船上で塩漬けニシンの樽詰を量産して売ったのが、オランダ商人であった。「アムステルダムはニシンの骨でできている」と言われた。

冬の北海での漁業は船を激しく損傷させ、そのため安価に船を造る造船業が発達し、17世紀オランダはヨーロッパ第一の海運国となった。

またオランダ人は荒れる北海でのニシン漁で優れた操船技術を身につけ、「吠える40度」と呼ばれる偏西風を利用してジャワ島(インドネシア)へと至る航路を開拓した。

オランダ人はジャワ島のバタヴィアに拠点を築いて東インド諸島の香辛料貿易を独占した。そしてバタヴィア、マカオ、長崎(出島)の三角貿易を確立した。

参考文献 宮崎正勝『商業から読み解く「新」世界史』

写真は武蔵の里(美作市)