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ブログ

2020-05-26

アウタルキー

中華思想とはどのようなものか、どのような結果をもたらすか?

清朝黄金期の最後、1793年乾隆帝80歳の時に英国から通商条約締結の交渉に来たマカートニーに与えた英国王あての勅諭。「わが天朝はおよそないものはないほど豊かであり、外国と通商して有無相通じる必要などもともとない。外国は茶葉、陶器、生糸などを求めて来航するのだから、天朝は慈悲の精神で交易に応じるにすぎない」

一方的に恩恵をほどこすのであり平等互恵という通商の根本精神はどこにもない。

1816年イギリスはアマーストを北京に派遣。清朝は嘉慶帝に向かって三跪九叩頭の礼をせよと要求、アマーストは拒絶した。

1834年ネーピアは書面を広州総督に渡そうとするも拒絶され、一切の貿易を停止すると宣言された。ネーピアは二隻の軍艦に砲撃させながら広州に侵入した。総督への書面は許されないので広州のイギリス商工会議所の会頭あての書面で伝えた。

「私は英国皇帝の名において総督と巡撫の宣言した暴虐不正な行為、権力濫用に抗議する。英国皇帝は大いなる君主であり、英国は清国よりも広くより力のある世界の領土を統治しており、行くところ制服せざるはない勇敢な軍隊を持っており、清国人が見たこともない120門の大砲を備えた大船を所有していることを宣言する」

中華思想に負けず劣らず英国流の中華思想。アヘン戦争が起こるのはこの6年後。

2020-05-06

日日是好日

現在のコロナ禍でこれまでの平穏な日常が破壊され精神的にも不安定な状態になりがちな時、この言葉に出会い、改めて前向きな心で地道な努力をすることの大切さを再認識しました。自分が正しいと信じる道を進んで行こうと。

庭に植えた十二単(ジュウニヒトエ)

冒頭写真はセキセイインコ

2020-04-11

元石橋

先月中頃より少し時間的な余裕ができたので、前から気になっていた弊社庭園の模様替えを思い切ってすることにしました。

まず気になっていた庭の問題点を挙げていきます。

1 施工前の庭では流れに大きめの尖った砕石を使っているのですが、石の間から草が生える、枯れ葉が石の隙間に入り込む、ホウキが使えない、等の問題があった。

2 流れを完全にせき止める形で石橋が掛けられており、流れとしてとらえにくいし、橋を乗り越えなければ奥に行けない不便さがあった。

3 流れの横に雪見灯籠があるが、流れを自然の景色としてとらえようとするとどうしても人工的な灯籠は邪魔にならざるを得ない。

4 流れの下流に石臼を埋めて睡蓮を植えているが、これも自然の景色としてとらえようとすると邪魔になる。ただ、流れがだだっ広いものとなるのを防ぐためのアクセントが欲しかったことは理解できる。

5 奥の立石についてはその高さ(3mと2.7m)といいその重量といいこれを触るのは危険過ぎるので、その施工技術の高いことを尊重しそのままとさせていただいた。しかし手前の石は前垂れの穏やかな表現に終始していると思われるので、少しメリハリのある石組にしたいと思った。

次に実際の施工に入りますが

まず石橋(500×500×3000)の移動は重量的に困難なので割って二個の景石にすることにしました。せり矢を使い比較的簡単に割れました。割った石は流れにせり出すような格好に据え付けました。

次に流れに使われていた砕石ですが、撤去して処分するとなると運搬が重労働だし処分費も掛かる。そこで再利用して奥の立石の前の急流の表現に使いました。

灯籠と石臼は撤去して資材置き場に納めました。

石橋の撤去によりどうしても流れがだだっ広く無表情になる危険があるので、前述のように元石橋を流れにせり出して据えたのですが、更に流れを複雑にするため島を配置することにしました。立石の前に据えられていた二石と橋添石の、合計三島。流れの中にさらに小さい流れが島の回りを巡り変化のある景色ができました。

右手護岸の足元には伊勢ゴロタ石の洲浜を設け、流れ自体はモルタルの上に青のゴロタ石となりました。ただ、残念なことに洲浜と流れの石の大きさが同じになってしまいました。

流れを石だけで埋めてしまわず下草を流れに入れたい、しかし石を隠してしまわないようにあくまで脇役でいてほしい、この様な思いがあったのでできるだけ背の低い和風の下草を選びました。といっても庭にあったものを移植しただけなのですが。シャガ、セキショウ、リュウノヒゲ、オニシダ、フイリヤブラン等。ちょうどシャガの花が咲いてくれています。

以前に飛石と飛石の間を小石で埋め、洲浜状の広場にしていたのが、今回の流れと相まってより洲浜らしい雰囲気が出たのは計算外のことでした。

その他、御影石の親子のカエルがいるのですが、子を背負ったカエルはどことなく愛らしくもあり、どう処理しようかまだ考え中です。

2020-03-23

周山城址訪問記

先月の京北町行きは出発時間が遅く慈眼寺のみの訪問に終わったので、今回は早く出発し周山城址を目指しました。しかし問題点並びに反省点が多々ありました。

1 姫路から亀岡まで372号線一本で行けるので京北町は亀岡の上だから、と軽くみていると、372号線から分かれてからがかなり遠く峠道が多い。結局片道3時間(途中休憩含む)かかり、現地での時間は4時間となった。昼食は鯖寿司を買って本丸跡でいただいた。

2 道の駅ウッディー京北の近くなんだから行けばわかるだろうと思っていると、登城口がわかりにくく迷った。

3 登山道は伐採された丸太に妨げられることなくなんとか登れたが、道幅が40センチくらいしかないところが多く、よそ見をして足を踏み外しでもすれば急斜面を滑落するしかない、危険きわまりない獣道。

4 本丸跡らしき所に着いたものの、平地に礎石が点在しているわけでもなく、起伏があり本丸が建っている状態を想像するのは難しい。石垣の上部が崩れ下部のみ残っているのか元々低い石積なのかその辺がわからない。

5 ウッディー京北でもらった周山城址のご案内にも、残っている石垣の位置は明記されていませんでしたが、急斜面をあちこち探しまわるのは危険なので結局わからなかったのは悔いの残るところです。帰りに和菓子店「亀屋廣清」に寄り話したところ「最初はそんなもんです」と言われました。

本丸跡の様子

冒頭写真は弊社庭園改修部分

2020-02-11

くろみつ

先日放送されたNHK『歴史秘話ヒストリア』の斎藤道三の回は新発見の史料もあり内容が濃かったと思いましたので、論点を整理して記述したいと思います。

斎藤道三はこれまで油売りから身を起こし一代で一国の主にまで登り詰めた下克上の代表のように言われてきたが、実は道三の父と道三の二代による下克上であった。

土岐頼芸と頼純が対立する中、娘の帰蝶を頼純に嫁がせ一年後に暗殺、さらに頼純の弟に嫁がせこれも切腹に追いやった。この辺りの手段を選ばぬ残忍さが蝮と呼ばれる所以か。

次に帰蝶を嫁がせた相手が織田信長であった。うつけとの噂を確かめるため対面してみるとうつけどころか並々ならぬ英傑であることを悟り、信長が今川に攻められた際には加勢し友好関係を築いた。

道三の革新的なやり方に家臣は先例がないことを理由に反発し保守的な息子の義龍を担いだ。道三の着物の紋は道三オリジナルの二頭立浪であるが、義龍の紋は伝統的な桐であった。

ところで京都京北の周山城址近くの慈眼寺に行ったのですが、墨で黒く塗られた明智光秀像を拝観できました。有名な肖像画とは全く正反対の印象のその異様な姿、特に強すぎる眼力が独特でした。くろみつ(黒い光秀?)大雄尊としてお祀りされています。

2020-01-21

陳和卿

東大寺大仏は聖武天皇の発願により天平勝宝4年(752)に開眼供養が行われた。

その後治承4年(1180)、平重衡(清盛の五男)の南都焼き討ちにより大仏の腰から上が焼失(重衡は後に処刑された)。

翌年僧重源が大仏再興事業に着手し、寿永元年(1182)7月には宋の鋳物師(いもじ)陳和卿(ちんなけい)に命じて大仏鋳造を開始させた。

寿永2年(1183)2月には大仏の右手を鋳造、4~5月には頭部を鋳造、翌年(1184)1月には左手を鋳造。そして文治元年(1185)8月に大仏開眼供養。

続いて重源は大仏殿建立のための材木を求めて文治2年(1186)4月周防(山口県)に行く。建久元年(1190)10月大仏殿上棟式。

建久6年(1196)3月大仏殿供養。源頼朝が参列し馬千匹、米一万石、黄金千両、上絹千疋を奉納した。頼朝は大仏鋳造、大仏殿建立の責任者陳和卿に面会を申し入れるが、頼朝が対平家戦において多くの人命を断ったことの罪業深重なりとして陳和卿は面会を断った。これに対して頼朝は感涙に堪えず、奥州征伐の時の甲冑や鞍、金銀を贈るが、陳和卿は甲冑を釘にし鞍は東大寺に寄進、その他は頼朝に返した。

時は過ぎ10年後、元久3年(1206)東大寺は陳和卿の濫妨を提訴。後鳥羽院庁は、およそ陳和卿の作法驕漫増長、大仏鋳造時鋳型の中に土や瓦を入れ、大仏殿造営時にも柱を切り取り自分の唐船建造の材料にした、等々の判決を下した。

さらにその10年後、建保4年(1216)6月陳和卿は鎌倉に行き将軍実朝との面会を求めた。1週間後実朝と対面するや陳和卿は三回奉拝し号泣した。いぶかる実朝に対し「あなたの前世は宋の医王山の長老であり、私はその弟子でした」 この陳和卿の言葉は6年前に実朝が見た夢と同じ内容であり、夢のことを誰にも口外していなかったので実朝はこれを信じた。

同年11月実朝は医王山を訪れるための唐船建造を陳和卿に命じた。翌建保5(1217)4月17日由比ヶ浜で唐船の進水式を執り行い数百人が唐船を曳き海に浮かべようとするも遠浅の海岸であるため浮かばず失敗、船は砂浜で朽ちた。

参考資料 横内裕人 市民教養講座 実朝の渡宋計画

写真は姫路市木場 小赤壁の海岸

2019-12-15

庭園点描 平尾家庭園

9月に作用町名物ホルモン焼きうどんを食べに行き宿場町平福で農村カフェの庭園に出会ったわけですが、今回も佐用町の先の美作市武蔵の里に行きそこで平尾家庭園に遭遇しました。

観光ガイドなどには全く庭園のことは触れられていないのですが、石組の構成がとにかく素晴らしく、小ぶりな石の選定も見事でまさに模範的な築山石組となっています。名木百選の立て札が主石に寄りかかっていたり邪魔な化け灯籠があったりとかはありますが、築山石組として完璧な構成を備えています。

2019-11-14

平常心

「方丈記」を取り上げて「徒然草」を取り上げないのは片手落ちかと思い、ざーっと読み何か心に響く言葉はないかと探したのですが。

期待しているとうまくいかず、期待しないとうまくいく。心配していると案外すんなり行くし、簡単だとたかをくくっていると苦戦したりする。待っている人は急用ができて来られなくなり、期待していなかった人が来る。今日はこれをしようと思っていると別の用事ができて忘れてしまう。

とかくこの世は意のままにならないということでしょうか?

その道の専門家はたとえ下手であっても上手な素人より必ず勝っている。なぜなら専門家は気をゆるめず慎重に行うのに対し、素人は自由勝手な気持ちで振る舞うからだ。

木登り名人の言葉として

怪我はもう安全な場所になってから起こすものだ。

双六の名人の言葉として

勝とうと思って打ってはいけない、負けまいと思って打つべきだ。

これは心構えとして「平常心」の重要さを説いたものと私はとらえました。世の中のことは大騒ぎするほどの大したことは稀であり、基本的に平常心を持って事に臨めということなのかと。

前回の参考文献は 本郷恵子『蕩尽する中世』

写真は姫路市的形町 万宝寺庭園

2019-10-22

鴨長明

鴨長明は後鳥羽上皇の和歌所の寄人になり新古今和歌集にも歌十首が撰ばれた。後鳥羽上皇は下鴨の河合社の禰宜(ねぎ)に就けてやろうとしたが、妨害され叶わなかった。

また長明は音楽にも堪能で後鳥羽上皇の楽所に所属し秘曲の伝授を受けるほどの琵琶の名手であった。しかしこれも中傷により挫折した。

これらのことにより長明は五十歳で出家しその後伏見区日野に終の棲家として結んだ庵が「方丈」である。方丈つまり3m四方、高さは七尺、2.1m。建物に釘や楔は使わず掛け金で留めてあるので、簡単に解体していつでも引っ越しが可能であった。

長明は十九歳の時に父を亡くし二十代で夏の日照り、秋の大風、洪水による凶作、飢饉を見ており、生きることの煩わしさや住居選択の難しさを感じていたことも背景にあると思われます。

鴨長明の住居に関する詠嘆

しがない身の上の者が権勢者の近くに住めば、絶えず畏まっていなければならず、富者の隣に住めば、我が身のみすぼらしさが恥ずかしく、家族や召し使いが隣の暮らしぶりを羨ましがる姿を見なければならない。

立て込んだ所では火事が怖いし、辺鄙な所では不便な上に盗賊に遭う危険も大きい。

権力のある者は貪欲になり、独り身だと軽んじられる。財貨を持てば不安が多く、貧しければ恨みがましくなる。誰かを頼れば自由でなくなるし他人を慈しめば恩愛の情に束縛される。

世間の常識に従うのは窮屈だが、従わなければ狂人扱いされてしまう。

一体どこに住んでどのように暮らせば安心できるのか?

日野の方丈で長明は誰に遠慮することも妨げられることもなく、心のままに念仏を唱え琵琶を奏で自然に親しんで暮らした。

隠遁生活に入って、恨みも恐れもなく、運は天に任せ、生涯の楽しみはうたた寝しつつ見る夢につき、人生の望みは四季折々の美しい景色である。世界は我が心の持ちようひとつであり、地位や財宝よりも、今の私には一間の庵での生活がなにより好ましい。

写真は岡山後楽園の舟屋

2019-10-07

新古今和歌集

  • 北条時政、政子は源頼家の妻の一族比企氏を滅ぼし、さらに頼家を修善寺に幽閉した。この時頼家はまだ存命であったが幕府は頼家死去と奏上し頼家の弟千幡を征夷大将軍に任命する。千幡に実朝の名を授けたのは後鳥羽上皇であった。
  • 後鳥羽上皇の母七条院の弟坊門信清の娘(つまり後鳥羽のいとこ)が実朝の妻となる。後鳥羽と実朝は親戚であった。後鳥羽の和歌への執心の影響もあり実朝も和歌を始めた。
  • 古今和歌集は身分の低い作者が中心であったが、新古今和歌集は五位以上の殿上人中心の和歌集で後鳥羽自ら編纂に関わった。
  • 後鳥羽は日本書記以外行われなかった完成時の竟宴(饗宴)(言わば打ち上げパーティー)を行った。
  • 新古今和歌集には源頼朝の和歌が掲載されている。

道すがらふじの煙もわかざりき はる  る間もなき空のけしきに

(晴れる間もない曇り空だったので富  士山の噴煙が見えなかった)

頼朝の時代、富士山は煙を噴いていた  のか。