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ブログ

2022-06-21

EU対プーチン

 2019年9月EUの欧州議会は「欧州の未来に向けた重要な欧州の記憶」決議を可決した。これは第二次世界大戦の原因としてナチスだけでなく、ナチスと不可侵条約を結んだソ連の責任もあるとするもので、ナチスはニュルンベルク裁判で裁きを受けたが、ソ連の戦争責任についても調査する必要があるとした。

 これに対し、2020年6月プーチンはアメリカの雑誌に反論「第二次世界大戦戦勝75周年に向けた真実の教訓」を投稿した。

 第二次大戦の根深い原因は第一次大戦の結果から発生している。ヴェルサイユ条約はドイツをあまりに不当に扱った。ドイツは強盗されたも同然だ。ドイツ民族が辱しめを受けたことがナチスを生み新たな戦争の原因となった。よって米英ら西側がヴェルサイユ条約によって間接的にナチスを生み育て戦争を起こさせたとも言える。

 西側は独ソ不可侵条約こそ第二次大戦の原因だと主張するが、その前年の「ミュンヘン会談」こそが原因だと言いたい。西側はこれについては一言も触れないが。

 ミュンヘン会談で英仏はナチスと談合してチェコスロバキアの解体を許可した。ソ連はチェコスロバキアの同盟国であったがなんの相談も受けていない。

 英仏はナチスにチェコスロバキアの解体をさせ、ナチスの次なる矛先を西側でなくソ連に向けさせた。これによってソ連は英仏に大いに不信感を持った。このことが独ソ不可侵条約の背景にある。さらに言えば当時ソ連は対ドイツ西部戦線だけでなく、対日本東部戦線もかかえており、二正面作戦を避けるため独ソ不可侵条約を結んだという事情もあった。

 独ソ不可侵条約よりもミュンヘン会談でナチスに宥和的な姿勢をとったことが大戦の引き金になったと言うべきだ。

 ソ連は独ソ戦で多大な血を流し連合国の勝利に大きな貢献をした。対日戦もヤルタ合意に従ったものだ。

参考文献=江崎道朗『日本人が知らない近現代史の虚妄』

画像=あさご芸術の森美術館にて

 

2022-06-02

ウクライナの非核三原則

 ウクライナのソ連からの独立は1991年8月24日ですが、1990年7月16日ウクライナ最高会議は「ウクライナ主権宣言」を採択した。独立に向けて国家の方向性を打ち出したものと言えます。その中でウクライナは非核三原則を発表した。これを採用する国は日本とウクライナのみです。なぜウクライナは非核三原則を採用したのか?
1990年当時、ソ連崩壊前の段階では、待ちに待った冷戦の終結、それに伴う国際協調の雰囲気が強く、人々が「平和主義」「中立主義」という理想を抱いた。これまでのソ連に対する忠誠心・緊張感が消滅しいわば「平和ボケ」の状態になった。
1990年代初頭ウクライナは世界第三位の核戦力を保持していた。2800~4200発の戦術核弾頭、176発の大陸間弾道ミサイルを持っていた。ソ連崩壊とともにウクライナ国内にある公的財産はすべてウクライナ国家が所有するはずであるが、ウクライナは非核三原則を忠実に実行した。1992年までにほぼすべての戦術核兵器はロシアに輸送された。1994年ウクライナは核拡散防止条約に加盟した。1996年2月最後の核弾頭がロシアへ輸送され、ウクライナは非核国となった。
ではなぜウクライナの非核化は迅速に進んだのか?
当時ウクライナの大統領・最高会議議長から官僚まで支配層は、すべて元共産党員であった。ソ連共産党に対する忠誠心のみで生きてきた彼らは、ウクライナに対する愛国心を持っていなかった。彼らにとってウクライナ国家は権力をむさぼり私腹を肥やすための道具であった。またソ連共産党の中で有能な人はモスクワに集まり、ウクライナのような「地方」止まりの人は有能ではないことを意味していた。
さらにソ連時代にはモスクワの共産党中央委員会の決定を実行さえしていればよく、自分で大きな決定をしたこともなかった。愛国心がなく、堕落した、無能な元共産党員たちは核兵器という厄介なものを一刻も早くなくし、楽に仕事がしたかった。
またウクライナの非核化にはアメリカの意向が大きかったと言えます。
アメリカをはじめ欧米諸国はソ連末期のゴルバチョフ書記長の民主化・自由化の政策や国際協調外交に賛同し、アメリカは経済支援を行なった。アメリカはソ連崩壊後はロシアを支援したが、旧ソ連圏の管理をロシアに託し、旧ソ連諸国を相手にしなかった。アメリカは旧ソ連の核兵器はロシアが受け継ぐべきものと考えた。アメリカは経済制裁や国際社会からの追放をちらつかせウクライナに核の放棄を強硬に迫った。今日のウクライナの悲劇の遠因の一つとしてロシアを偏重・優遇しすぎたアメリカの誤った政策があったと言えます。
参考文献=グレンコ・アンドリー『プーチン幻想』

2022-05-03

師アンドロポフ

 ユーリ・アンドロポフはソヴィエト共産党書記長をブレジネフの後任として1982年11月から1984年2月に死去するまで務めた人物ですが、今その思想と行動を検証すべき人物ではないかと思います。

 1954年アンドロポフはハンガリーのブダペスト駐在ソヴィエト大使となった。1956年10月23日ハンガリー動乱が起きた。1953年のスターリン死後、フルシチョフのスターリン批判もあり、共産主義に対する抗議運動が高まった。アンドロポフはこの事件を「反革命・反社会主義の暴動」として非難し、進歩的なナジ・イムレ政権の転覆を企てた。
アンドロポフはソ連軍が撤退したと虚偽の情報をナジに伝え、さらに国防相を夕食に招待しKGB暗殺部隊を乱入させて殺害した。ナジはユーゴ大使館に避難したが、アンドロポフは恩赦を与えると虚偽の通達をしてナジが出てきたところを逮捕、後に秘密裁判にかけて処刑した。
ハンガリー動乱では2500人以上の国民が死亡し20万人が国外に逃れ、アンドロポフは「ブダペストの虐殺者」と呼ばれた。
1967年から1982年までアンドロポフはKGB議長を務めた。1969年ブレジネフ書記長暗殺未遂事件では狙撃犯を「狂人」と断定、精神病院に強制収容した。その後数十人の反体制派の人物が「精神病」を口実として精神病院に収容された。アンドロポフは「人権運動はソヴィエトの国家基盤を弱体化させる帝国主義の陰謀である」と言っていた。
アンドロポフはKGBでの部下への訓示で「社会主義と資本主義の対決の戦場は全世界であり、社会生活の全局面にわたる。平和共存と言ってもあらゆる戦線における厳しい戦いが続くことに変わりはない。KGBに休戦などありえない」と語った。
1975年にKGB入りしたプーチンがアンドロポフの.厳しい指導と謀略理論から強い影響を受けたことは確実といえます。
そしてアンドロポフの思想の基にあるのはレーニンの思想ではないか。「相手を説得するのではなく相手の戦列を打ち破る。相手の誤りを正すのではなく相手を破壊し相手の組織を地上から一掃する」
プーチンは最も尊敬する人物としてユーリ・アンドロポフを挙げており、サンクトペテルブルク市街地にはプーチンが建てたアンドロポフの銅像がある。

前回参考文献=朝日新聞国際報道部『プーチンの実像』

今回参考ブログ=藤谷昌敏 『世界に理解されないプーチンの思想と論理』

画像=万博記念公園 日本庭園 深山の泉

 

2022-04-14

コソボ紛争

 2006年7月ロシアは初めて主要8か国首脳会議(G8サミット)の議長国を務めることになり、プーチンは気分が高揚していた。サミット最終日の記者会見で対米関係について訊かれ「私たちの関係は根本的に変わった。もうお互いを敵視する関係ではなくなった」と言っていた。
 プーチンは「ユーラシア経済連合」を夢見ていた。ヒト・モノ・サービスの自由な移動を認めるEUのような経済連合で、将来的にはEUと「ユーラシア経済連合」を連携させ「リスボンからウラジオストクまでの自由経済圏」を実現させたい。これはあくまで経済連合であって旧ソ連のような政治的な関係ではないとしていた。
 しかし2012年12月当時アメリカの国務長官であったヒラリー・クリントンは警戒心をあらわにした。「呼び方がどうであれこれはソビエト連邦化を目指すものであり、私たちはそれを止めなければならない」 クリントンの発言はプーチンの容認できるものではなく、2016年のアメリカ大統領選挙でロシアは陰からトランプを支援しクリントンを妨害した。
 2014年ロシアはクリミアを併合しG8から追放された。
 プーチンの論理によれば、欧米がコソボでしたことを我々がクリミアでしただけのことだ。なのにロシアだけが経済制裁を受けている。これは不公平だ。
 1999年セルビアの自治州コソボで、セルビア治安部隊がアルバニア系住民を弾圧、非人道的行為を繰り返しているのをやめさせるため、「人道的介入」としてNATOが「国連安保理の決議なしに」空爆した。コソボは2008年独立した。ロシアはセルビアを支援する立場からコソボを国家承認していない。
 2014年ロシアは、クリミアでロシア系住民がウクライナ政府から弾圧されているという理由で軍事介入し、クリミアを併合した。
 G8サミットの議長を務めた頃と大きく変わってしまった。
 

2022-03-30

あるウクライナ人

マルキャン・ボリシコは1880年代にウクライナ東部ハリコフに生まれた。農民の両親はロシア帝国による極東移住の呼びかけに応じ、一家は樺太に入植した。
1917年にロシア革命が勃発し、北樺太にも社会主義の影響が出始めると、革命政権を嫌うマルキャンは単身、日本治政下の南樺太に亡命した。
1928年納谷キヨと結婚し、牧場を経営した。日本人や白系ロシア人(ロシア革命に反対して国外に亡命したロシア人)を雇い、肉や乳製品の生産により成功し、名士となった。
1940年5月29日敷香(しすか)郡敷香町で三男イヴァーンが生まれた。
ロシア革命以来南樺太には白系のウクライナ人・ポーランド人がソ連政府の弾圧から逃れて居住していた。
1945年8月、ソ連が対日参戦し、赤軍が南樺太に侵攻、南樺太はソ連に実効支配された。
マルキャンはソ連当局に逮捕され、反ソ宣伝を理由に自由剝奪10年の刑に処せられた。1954年恩赦により出獄したが、1960年11月15日肺炎のため死去した。
息子イヴァーン(大鵬幸喜)が九州場所で初優勝したのもその11月であった。

2022-03-12

ELP

 ムソルグスキーは友人の建築家・画家の死にショックを受け、その遺作展を見た感動から、35歳の時に組曲「展覧会の絵」を完成させた。その構成としては10枚の絵を見た印象を10曲の音楽で表現している。その最後の曲が「キエフの大門」。
1970年代にエマーソン・レイク・アンド・パーマーはロックに編曲した「展覧会の絵」を発表した。
オルガン・シンセサイザー奏者のキース・エマーソンはキーボードにナイフを突き刺したりオルガンの上に乗ったりという暴力的なパフォーマンスをした。
当時高校生の私はNHKの「ヤングミュージックショー」で彼らの音楽を知り、衝撃を受けたものでした。
その後1977年に「庶民のファンファーレ」で再び彼らをみた時、無精ひげにやや太りぎみでまるで別人になっていてまた衝撃を受けました。
キエフというとグレッグ・レイクが歌っていた曲を思い出したので、書いてみました。
お亡くなりになったウクライナの方のご冥福をお祈りします。今は亡きキース・エマーソンと42歳という若さで亡くなったムソルグスキーにも 合掌。

画像=大津市なぎさ公園の鴨

2022-02-10

NATOはなぜ拡大

 プーチン大統領はなんとしてもウクライナのNATO加盟を阻止したい。しかしかつてNATOに対抗するためのワルシャワ条約機構というのがあったはずだが。そんなのは1991年、とっくの昔に解散していたか。

 ではなぜそうなったのか、ポーランドと第二次世界大戦を辿ることによって見ていきたいと思います。

1 1939年8月23日 独ソ不可侵条約と秘密議定書 これによりポーランドは独ソに分割されることが決められる。

2 1939年9月1日 ドイツがポーランド進攻

3 同年9月17日 ソ連がポーランド進攻

4 1941年6月22日 ドイツが独ソ不可侵条約を破棄して対ソ進攻。

これによりイギリスはソ連と軍事同盟を締結。ロンドンのポーランド亡命政府は「ポーランドを侵略したソ連と同盟するとは何事か」と抗議するも相手にされず。

5 1943年4月 ロシア西部のカチンの森でポーランド将校約四千人の射殺死体が発見される-ポーランド捕虜虐殺事件-カチンの森事件。

6 1944年8月1日 ワルシャワ蜂起

ナチス・ドイツに占領されていたポーランドの首都ワルシャワでソ連軍がナチスを攻撃してくれるという期待から、ポーランドのレジスタンス(抵抗組織)が一斉に蜂起した。ワルシャワ郊外にいたソ連軍はレジスタンスを助けず見殺しにした。ワルシャワはナチスに破壊され二十万人もの犠牲者が出た。「ワルシャワはドイツによって物理的に破壊され、ソ連によって精神的に破壊された」。

7 ワルシャワ蜂起の失敗によってロンドンのポーランド亡命政府は連合国の支持を失い、それに代わってソ連の支持のもとポーランド共産党による暫定政府が活動を始めた。

8 1945年2月 ヤルタ会談で米英ソはポーランドをソ連の影響下に置くことを決定。ポーランド亡命政府は見捨てられた。

9 その後40数年間、ポーランドはソ連の衛星国として支配され、秘密警察による人権抑圧と貧困に苦しんだ。

10 ポーランドは現在、各地に戦争博物館を建設し、ナチスとソ連によってもたらされた悲劇を伝えている。

参考文献=江崎道朗『日本人が知らない近現代史の虚妄』

2022-02-03

近衛の乱

 昭和20年2月昭和天皇は戦況と展望について重臣の意見を聞くことを希望され、7人の重臣が答弁した。近衛は2月14日に上奏した-いわゆる「近衛上奏文」。

 もはや最悪の事態は必至である。国体護持の立場から最も憂うべきは共産革命である。少壮軍人の多数はわが国体と共産主義は両立できると信じている。そもそも職業軍人なるものは中流以下の家庭に生まれ、共産主義を受け入れやすい境遇にある。満州事変・支那事変を起こし、これを拡大し、ついに大東亜戦争まで起こしたのは彼ら軍部の一味である。彼らは戦争を長引かせ、それに乗じて共産革命を起こそうと画策している。

 従って国体護持のためには彼の一味を一掃し戦争を一刻も早く終結させる他ないと存ずる。

 彼は首相在任中、共産主義者を政権の中枢に置いてその影響力を利用して戦争を煽っておきながら、敗戦後の戦争責任からのがれるため、今度は軍部に戦争責任を転嫁しようとした。

 さらに彼は敗戦後マッカーサーと会い、これまでの戦争を扇動してきたのは共産主義者であり、自分のような保守主義者は今後の日本のために反共の防波堤として必要とされると訴えた。

 しかしマッカーサーの部下や政治顧問は共産主義者で占められており、彼らの目には、数年前まで手を携えてきた共産主義者を売り、己れの身の安全のみを図ろうとする近衛は極めて身勝手であり、また共産主義者が戦争を誘導した事実をマッカーサーに知られるのも許せないことであった。

 昭和20年11月9日東京湾に浮かぶ軍艦アンコン号でGHQの取り調べを受け、中国侵略と対米戦争を企んだ張本人と指弾された。

 12月6日彼に戦犯容疑者としての逮捕命令が出された。巣鴨拘置所入所日は12月16日であったが、16日朝彼は布団のなかで死んでいるのを発見された。

 彼の「昭和の藤原の乱」の構想としては、日米戦争でアメリカに敗北した後、昭和天皇に退位を迫り、そうして自らの親米政権を樹立して日本国の頂点に君臨する事であったかもしれない。

参考文献=前回と同じ

 

 

2022-01-20

彼は優柔不断で軍部の暴走を許したのではなく、むしろ彼が軍を煽った

 明治24年(1891年)東京市に生まれる。明治37年父篤麿が亡くなる。

 第一高等学校時代に、明治天皇が彼の母の実家に行幸した際、送迎役の近衛家当主の彼は参列を拒否した。また後年昭和天皇に政務を上奏する時、重臣たちが直立不動の姿勢で行なったのに対し、彼は椅子の背にもたれて行なった。「天皇」なにするものぞ、という彼の反抗心の現れであった。

 氏祖藤原鎌足から46代目、藤原氏の五摂家の筆頭近衛家の当主である彼は、「藤原」の血への信仰が篤く、「藤原文麿」と刻まれた印鑑を愛した。

 大正6年(1917年)「英米本位の平和主義を排す」という論文を雑誌『日本及日本人』に発表した。列強が植民地とその利益を独占している現状は不公平・不平等であり、現状を打破する行動こそ正当な要求である。英米本位の平和は欺瞞だ。

 彼は昭和8年にも「世界の現状を改造せよー偽善的平和論を排撃す」という論文を発表した。内容は前論文に近いものであったが、この論文は当時高まりつつあった排外的な愛国心とマッチして彼は人気を博した。

 彼に組閣の大命が下されたことを報じる朝日新聞は「白面の青年宰相 わが内閣史上画時代的 四十七歳の近衛公」と狂喜した。

 彼は「昭和研究会」というシンクタンクを設立し、尾崎秀実(後にソ連のスパイとしてゾルゲ事件で逮捕)ら共産主義者に首相官邸内で支那事変続行の世論形成のための論文執筆活動をさせた。

 彼は共産主義者である風見章内閣書記官長と共に支那事変拡大を扇動する声明を出し、陸軍と世論を煽った。

 さらに日独伊三国軍事同盟を締結、南部仏印進駐を強行。これにより米英蘭は対日石油全面禁輸という制裁を行なった。事ここに至り日米戦争は避けられないところまで来た。そうしておいて昭和16年(1941年)10月彼は東條英機に首相のバトンを渡した。

 彼自身は共産主義者ではなかったが、日米戦争を起こそうとしていた点では共産主義者と思惑が一致していた。

 その後についてはまた次回に。

参考文献=林千勝『日米戦争を策謀したのは誰だ』

 

 

 

 

 

 

2022-01-03

毛沢東越え

新年明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。

習仲勲は1913年中国中部の陝西省に生まれ、10代で中国共産党に入党した。共産党の「長征」の最終目的地とされたのが陝西省であり、習らが共産党の根拠地を死守したこともあり、同省の延安が臨時首都とされた。

習は国務院副総理などの要職に就いた。

しかし1962年、反党的な小説の出版に関与した嫌疑により全ての要職を奪われ16年間投獄された。

さらにその後猛威をふるった文化大革命の嵐は息子の習近平にも及び、紅衛兵によって生家を破壊されただけでなく、反動学生として4回投獄された。さらに陝西省の寒村に「下放」され黄土を掘って作った洞窟に寝泊まりし、労働体験をさせられた。習の姉は餓死したと伝えられる。

これらは毛沢東が権力闘争の中で文化大革命という騒動を起こし、その影響をもろに受けてしまったことによるのであり、苦難の根源は毛沢東にあるのは明白である。

にもかかわらず習近平は毛沢東を偉大な指導者として国民に尊敬するよう強要し、毛の著作を読むよう奨励している。文化大革命を批判する言葉も歴史教科書から削除された。このあたりの習近平の心理は謎ですが、参考文献では虐待されてもなお親のもとにとどまりたい子供の心理かと推定しています。

さらに習近平は毛沢東さえやらなかった、チベット人、モンゴル人、ウイグル人という民族のアイデンティティーを完全に剥奪し漢民族に同化させるという暴挙に出ています。

参考文献=エドワード・ルトワック『ラストエンペラー習近平』