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反政府運動を煽り好ましくない政府を倒した
1957年2月に首相に就任した岸信介は、吉田首相が結んだ日米安保条約のままでは日本民族の恥さらしだと思い、安保条約をもっと自主性のあるものに改定する、そのためには再軍備・憲法改正も必要と考えていた。
同年6月訪米した際の共同声明では、米軍地上部隊の速やかな撤退を含む米軍の大幅な削減が明記された。岸はさらに行政協定についても全面的に改定すべき時に来ていると国会で答弁した。
しかし行政協定に関しては米国側の強い抵抗が予想され、岸はまず安保条約を改定ししかる後に行政協定の改定を目指す二段階論を考えていた。当時自民党は衆議院で288議席という圧倒的多数を有しており新安保条約の批准は問題なく進むはずであった。
しかし自民党内部の池田勇人らは安保条約と行政協定の同時改定を強く主張し、岸に実現不可能な無理難題を吹っ掛けた。池田らの言わば遅延作戦により安保条約改定は難航し、そうこうしているうちに安保反対運動が急速に盛り上がった。
そして1960年6月15日ついに女子東大生がデモに参加中死亡するという事故が起こった。6月18日には多数のデモ隊が国会・首相官邸を取り巻いた。6月19日新安保条約は参議院の議決がないまま自然成立し、6月23日岸首相は辞意を表明した。
岸の次の首相となった池田勇人がその後行政協定を改定したかというと、全くせず「所得倍増計画」を打ち出し国民の目を経済に向けさせひたすら高度経済成長に突き進んだ。
ところで安保闘争の最盛期早稲田車庫から国会議事堂まで都電やバスをを20~30台チャーターして運動員を運んだ。その財源はどこか?これについては田中清玄という人物が電力・製鉄・製紙・新聞など経済界からの資金を渡していたことがわかっています。経済界特に経済同友会は親米の経営者組織と言われている。
ここで考えられるシナリオとしては、まず米軍関係者が岸首相の米軍削減路線に危機感を覚え安保闘争を起こさせ岸政権を倒そうとした。経済同友会にデモへの資金援助をさせた。死亡事故まで起き岸退陣の見通しがついたので新聞を使ってデモを抑え込む方向に動いた。
対米自主路線を目指した岸政権は倒され対米追随路線の池田政権にとってかわられた。
参考文献=前回と同じ 画像=弊社庭園
対米追随の原点
1951年9月8日サンフランシスコのオペラハウスで日本は48か国の代表と講和条約を結んだ。同日、日米安保条約も締結された。アメリカ側のアチソン国務長官他4名に対し日本は吉田茂首相ただ一人であった。しかも場所はサンフランシスコ郊外の米軍基地の下士官クラブであり、首相と日本国民に敗戦国としての身の程を知らせる意味もあったと思われる。
そして米軍の日本駐留に関しては安保条約にはなんの記述もなく、国会の審議の必要のない行政協定に入れられた。
この行政協定に「米国は駐留を希望する基地について、講和発効後90日以内に日本側と協議し日本側の同意を得なければならない。ただし90日以内に協議が整わなければ、整うまで暫定的にその基地に留まってよい」という箇所があった。
当時サンフランシスコ講和会議に全権随員として参加していた宮澤喜一元首相はこれについて「これでは講和条約を結んで独立する意味がない」として外務省に削除を申し入れた。
するとこの規定は行政協定からは削られたが、国務大臣岡崎勝男とラスク国務次官補の名が入った「岡崎・ラスク交換公文」の中にそのまま残された。
米国は望むだけの軍隊を望む場所に望む期間、駐留させる権利を確保したい。しかし日米安保条約には書けない。そこで行政協定に入れた。しかし宮澤などの目にとまって都合が悪くなると誰も見ない「交換公文」に書き込んだ。
交換公文は国家間の合意文書であり、公に発表はしないが効力は同じ。岡崎は行政協定締結の直後、外務大臣に昇進した。戦後の日本外交の極端な対米追随姿勢は吉田首相と岡崎国務大臣によって決められた。
参考文献=孫崎亨『戦後史の正体』
池中立石
5月に岩手県平泉の毛越寺庭園に行きました。神戸空港から花巻空港まで約1時間半とは言え、自分としては生涯ただ一度の平泉かもしれない。しかし改めて日本庭園の美しさを教えられ、奥州藤原氏が100年で滅んだ悲劇の地でもあり、大変感慨深い庭園体験となりました。
気付いたことを2点だけ書きます。
まず池の汀線の美しさ。これはゴロタ石を遠浅に敷き詰めた州浜状の汀などによるもので、堅固な護岸石組ではこうも美しい優美な曲線は出せないと思われます。
そして毛越寺というと必ず「池中立石」を後ろ側の岸から撮った写真が使われるのですが、今回立石が一番美しく見える位置はどこなのか、池をめぐってみました。これに関しては創建当時、「南大門」のあったところから中島へ、中島から金堂のあった対岸へと、2本の橋が架けられていたことが参考になります。やはり今はない橋の上から、または対岸から見るのがベストなのであろうと思いました。そう思ってみるといつもの見慣れた池中立石のあまり見せたことのない別の表情が見えたのかもしれません。ちょっと遠かったけど。
重森三玲の集大成
約20年ぶりに松尾大社庭園を訪れ、感じ方も変わったと思いましたので感想を書いてみます。
重森三玲の庭はかなりの程度共感できるが、しかしちょっとやりすぎでは?とも思っていました。
まず庭の構成要素が立石と砂利と地模様、苔かサツキだけだったりと、構成が明快すぎて単純に見えてしまう。これに関しては、まず護岸石組みをなくし、代わりにモルタルで地模様を描いたり、護岸をゆるやかな法面にしてそこに張石をするなどし、そのうえで築山や島に石組みをすることにより、石組みに視線を集中させる目的のためであったと考えられます。
また立石が多すぎると感じた点に関しては、重森としては立石こそが石の特徴・魅力・勢い・表情等を最も訴えやすいと考えたのではないかと思います。そして立石に変化を持たせるため高さ・傾きの角度を変え様々な石の組み方をした。
とは言えなかなかその良さがわからない石組みが多いのも事実であり、私はこの庭で一番好きな石はどれだろう?と考えたりしました。するとなんでもなく思っていた石が好ましく思えることもあります。
地模様に関しては、日曜美術館で見た歌川広重の作品(洗馬宿)に雲や岸の表現に重森三玲的なところがあり、景色の理想形を描いている点で共通していると思いました。
そして今回の松尾大社で一番良かったのは、重森三玲の三尊石組でした。これは大沢の池・名古曾の滝を思わせる重厚な三尊石組でここは共感できたところです。
戦争によって利益を得る者
文久3年(1863年)孝明天皇が攘夷実行の勅命を発したことから、萩藩(長州)は5月に外国船に無差別発砲をした。さらに7月には薩摩と英国との戦争が勃発した。
そしてこのタイミングで横浜にイギリス系銀行、セントラルバンク、マーカンタイルバンク、コマーシャルバンクが、さらに翌年にはオリエンタルバンクが支店を開設した。
戦争が始まった危険な時期になぜ? というより彼らは戦争を待ち望み、ついにその時が来たと判断し横浜に上陸した。
戦争が始まりまずグラバー商会やジャーディン・マセソン商会が中古の戦艦を高値で売りさばき大儲けした。戦争により武器商人が潤う。しかし問題はそこにとどまらない。
戦争が起きると戦争当事国の通貨は暴落し、国際決済で使えなくなる。そして横浜に進出した外資系銀行が貸し出す国際流通通貨(当時はメキシコ・ドル)で決済せざるを得なくなる。これによらなければ銃1丁買えない。外資系銀行の融資に頼らなければ戦争ができない。逆に外資系銀行からすれば戦争をしてもらわなければならない。
戊辰戦争後、士族の反乱が続き、明治10年には西南戦争が勃発、明治8年の江華島事件後は朝鮮での紛争が続きついに日清戦争へとつながっていった。幕末以来日本は戦争が続く状態となった。
余談ですが司馬遼太郎によって有名になった坂本龍馬の暗殺犯ですが、武力討幕をしたかった薩長とりわけ薩摩にとって、大政奉還などという卑怯なやり方は許せない、その仲介をした龍馬は生かしておけないとなった、と論理的には言えるそうです。
参考文献=苫米地英人『明治維新という名の洗脳』
画像=京都 大原 三千院
強気なポーランド
第一次世界大戦後のベルサイユ条約により、ポーランドにバルト海への出口を与えるため、ドイツ領の西プロイセンがポーランドに割譲された。これによりドイツ領東プロイセンは飛び地となった。
西プロイセン(ポーランド回廊)には多数のドイツ人が居住しており、1939年ヒトラーはダンツィヒの返還とポーランド回廊への鉄道と高速道路の建設を求めたが、ポーランドは強気に出てドイツとの交渉をはねのけた。
1939年9月1日にナチスはポーランドに侵攻するが、その直前には西プロイセンのドイツ系住民六万人がポーランド人に虐殺されていた。
ポーランドが強気でいられたのは戦争になっても英仏両国から支援の約束を取り付けていたからであった。さらに米国のフランクリン・ルーズベルトも英仏側に立って参戦するとの意向を示していた。これは現在のゼレンスキーが欧米からロシアと妥協するなと圧力をかけられている状況と同じです。
また米国は独ソ不可侵条約の秘密議定書の内容(独ソでポーランドを分割)を知りながらポーランドに伝えなかった。
その後英仏は約束通りドイツに宣戦布告したものの、ポーランドに援軍は送らず、亡命政府をロンドンに受け入れただけであった。ヒトラーと組んだソ連が東側からポーランドに侵攻したことは黙認した。ポーランドはドイツ・ソ連・スロバキア・リトアニアの4か国に分割占領された。ポーランドは英仏米に騙された。ポーランドの指導者は愚かであった。
ヒトラーは英国との和平を望んだが、チャーチルは交渉を拒否し、戦争を継続した。チャーチルが強気でいられたのはルーズベルトの米国が参戦してくれると信じていたからであった。ルーズベルトは武器貸与法を成立させ武器支援をしていたが、日本を石油禁輸で締め上げついに真珠湾攻撃をさせた。これで米国世論は大きく変わり参戦に踏み切れた。
1943年のテヘラン会談でスターリンはルーズベルトに、ソ連国内の民主化を約束し、その見返りとしてポーランドに共産主義政権をつくることを認めさせた。スターリンにまんまとやられた。
プーチンが侵攻に踏み込んだ理由もドンバス地方でのロシア系住民の虐殺であったし(ウクライナに不利な情報は一切報道されないが)、小国が大国の支援を頼りにするところも同じである。
参考文献=渡辺惣樹・福井義高 『「正義の戦争」は噓だらけ』
画像=京都 大原 宝泉院
大家族社会
明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。
なかなか読書できなかったり現場が忙しかったりでご無沙汰しました。
さて「広義のロシア」は「大ロシア(ロシア)」「白ロシア(ベラルーシ)」「小ロシア(ウクライナ)」から成り、広義のロシアからするとウクライナはロシアの一部と考えられる。
しかし人類学的にはロシア社会とウクライナ社会はかなり違っている。ロシアの農村社会は家父長制の大家族であり、権威に従うことに慣れていた。このことが共産主義と親和性を持っておりロシア革命を実現させた。大家族(共同体家族)の社会は、権威主義的な社会で平等概念を重んじ集団行動を得意とする。こうした社会がプーチンのような権威主義的な指導者を支持する。
他方ウクライナ(小ロシア=ウクライナ中部)は核家族の社会であり個人主義の社会である。ロシアよりはイギリスやアメリカの社会に近い。このためロシア人はウクライナ人を「少しとがったロシア人、自分勝手でアナーキー、ポーランド人みたい」と見ている。
またウクライナは中部(小ロシア)とほぼポーランドの西部、ロシア語圏を含む東部・南部、この3つの地域の社会がそれぞれかなり違っている。
さらにウクライナでは、高等教育を受けた労働人口がドイツをはじめ西欧諸国に大量に流出、独立以来30年で人口は5200万人から4500万人に激減した。
今後もしウクライナが戦勝したとしても国家の再建は前途多難は必至。
参考文献=エマニュエル・トッド『第三次世界大戦はもう始まっている』
バイデンの誘導
西側の情報ではウクライナに不利なことは無視され報道されないので、今までウクライナ情勢の本当のところはなかなか見えてこなかった。最近やっと真相が見えつつあるように思いますので整理します。
1 2014年2月のマイダン革命により親米政権が成立。報復としてプーチンはクリミアを併合。
2 しかし親米政権に東部ドンバス地方の親露派住民が反発、内戦が起こる。
3 この内戦を停止させるために、2014年9月に例の「ミンスク合意」が結ばれた。しかし戦闘は止まず2015年2月には「ミンスク2」が締結された。
4 2019年に大統領に就任したゼレンスキーは、ロシアに有利との国内の反発もあり「ミンスク合意」を履行しないことを決めた。
5 2021年3月24日ゼレンスキーはクリミア奪還を目指すとの政令を出し、軍備を南方に向け配置した。同時に黒海・バルト海周辺でNATOの軍事演習も行われた。ロシアも対抗して軍事演習を実施した。
6 2121年10月ウクライナはドンバス地方の燃料庫をドローンで攻撃した。これは「ミンスク合意」違反の行為であった。
7 2022年2月11日ベルリンで独・仏・ウクライナ・露の四者会談が行われた。何の成果もなく、ウクライナは「ミンスク合意」順守を拒否した形となった。
8 2022年2月16日以降ウクライナ軍はドンバス地方の住民への砲撃を続けた。
9 プーチンは、ドンバス地方の親露派住民が殺されるのを傍観するか、軍事介入するかの選択を迫られた。
10 2022年2月17日アメリカのバイデン大統領は、ロシアが数日以内にウクライナを攻撃する可能性があると発表した。バイデンがゼレンスキーに圧力をかけてドンバス地方を攻撃させ、プーチンが反撃するよう誘導したのであった。
参考文献=高島康司『グレート・リセット』
中東の狂犬
前回同様アメリカの介入についてみていきます。
エジプトとチュニジアに挟まれたリビアで1969年から2011年まで権力を握ったカダフィ大佐については、その独裁と非民主主義国家というイメージしかないが、実際の内政はどうだったのか?カダフィの功績を列挙します。
・石油の利益によりリビア国民にアフリカ最高水準の生活をもたらした。
・教育・医療費無料
・女性の教育・就労を奨励
・新たな就農者には土地・家・家畜・飼料を無料支給
・灌漑設備により砂漠の緑地化
ただカダフィは選挙権を認めなかった。
2010年にチュニジアから始まった「アラブの春」はエジプト・リビアにも波及した。大統領は失脚したが殺害まではされなかった。しかしカダフィだけは殺された。カダフィが殺害されたとき当時のオバマ政権の国務長官ヒラリー・クリントンは狂喜した。2012年のアメリカ大統領選挙を控えていたオバマと、2016年の大統領選挙に出たクリントンにとって、リビアの民主化を達成したという外交的成果が欲しかった点では一致していた。ではなぜカダフィだけが生存を許されなかったのか?
2009年カダフィはアフリカ連合の議長をしていたが、石油をドルで決済するというペトロダラーシステムに挑戦し、リビア通貨ディナールに金兌換性を持たせ石油決済をディナールでするよう提案し、エジプトとチュニジアが賛同した。これはアメリカのドルを脅かすものであった。
カダフィ政権崩壊後、リビアはイスラム主義勢力の西部と世俗派の東部に分裂し、内戦状態に陥った。トルコや旧宗主国のイタリアが西部を、ロシアやエジプトが東部を支援している。カダフィ時代にくらべ、治安も経済も格段に悪化した。
画像=瑠璃寺(佐用町)の渓谷
ヌーランド女史
ヴィクトル・ヤヌコーヴィチは1950年に生まれ1967年暴力団に加わり強盗事件に関わり懲役刑に服した。1970年に再び強盗事件により懲役刑の判決を受けた(1978年に裁判所は判決を無効とした)。その後人生は大きく好転し2002年には首相になり、2004年のウクライナ大統領選挙に立候補した。対立候補は同じヴィクトルの名を持つユシチェンコで前政権下の汚職や非民主的な政治手法を攻撃した。
2004年9月ユシチェンコの顔はダイオキシン中毒とみられるあばたに覆われた。ユシチェンコは対立候補またはロシア連邦保安庁の犯行と主張した。
11月の選挙の結果ヤヌコーヴィチの勝利が発表されたが、ヤヌコーヴィチ側の選挙不正が明るみに出、大規模な抗議運動が起きたーオレンジ革命。選挙をやり直すこととなり12月の選挙でユシチェンコが勝利、ユシチェンコが大統領となった。
しかしユシチェンコは首相のティモシェンコと対立し、天然ガス問題で政権批判が強まり2006年にはヤヌコーヴィチが首相に返り咲いた。その後ユシチェンコの支持は低下し2010年の大統領選挙ではヤヌコーヴィチが当選した。ドネツク州に生まれたヤヌコーヴィチは親露派であったが、議会はEUとの政治・貿易協定を望んだ。2013年ウクライナ政府はEUとの仮調印をしたが、ヤヌコーヴィチは署名を拒否した。調印予定日の11月21日キーウの独立広場に多数の市民が集まり始め抗議行動は長期化し、11月末には政府が機動隊を投入し負傷者が出たことからさらに抗議行動は過激化し、火炎瓶を使うに至った。そのデモ隊の先頭にいたのは極右政党の行動隊などいわゆるネオナチであった。
2014年2月21日ついに大統領官邸と議会が反体制派に占拠され、ヤヌコーヴィチはロシアに亡命したーユーロ・マイダン革命。
マイダン革命の最中、抗議派にクッキーを配っていたのが当時のオバマ政権の国務次官補ビクトリア・ヌーランドであった(今のバイデン政権の国務次官)。
このことが意味することはーヤヌコーヴィチを追放し親米政権を樹立するためアメリカが動いていた可能性が高い。実際6月に大統領に就任したポロシェンコは親米の人物であった。このようにウクライナ情勢は一方的にプーチンが悪いとするアメリカの見方のみを信じることも危険であるといえる。