直通:090-3622-2422
代表:079-246-2003
8:00-18:00/日・祝休み

ブログ

2022-01-20

彼は優柔不断で軍部の暴走を許したのではなく、むしろ彼が軍を煽った

 明治24年(1891年)東京市に生まれる。明治37年父篤麿が亡くなる。

 第一高等学校時代に、明治天皇が彼の母の実家に行幸した際、送迎役の近衛家当主の彼は参列を拒否した。また後年昭和天皇に政務を上奏する時、重臣たちが直立不動の姿勢で行なったのに対し、彼は椅子の背にもたれて行なった。「天皇」なにするものぞ、という彼の反抗心の現れであった。

 氏祖藤原鎌足から46代目、藤原氏の五摂家の筆頭近衛家の当主である彼は、「藤原」の血への信仰が篤く、「藤原文麿」と刻まれた印鑑を愛した。

 大正6年(1917年)「英米本位の平和主義を排す」という論文を雑誌『日本及日本人』に発表した。列強が植民地とその利益を独占している現状は不公平・不平等であり、現状を打破する行動こそ正当な要求である。英米本位の平和は欺瞞だ。

 彼は昭和8年にも「世界の現状を改造せよー偽善的平和論を排撃す」という論文を発表した。内容は前論文に近いものであったが、この論文は当時高まりつつあった排外的な愛国心とマッチして彼は人気を博した。

 彼に組閣の大命が下されたことを報じる朝日新聞は「白面の青年宰相 わが内閣史上画時代的 四十七歳の近衛公」と狂喜した。

 彼は「昭和研究会」というシンクタンクを設立し、尾崎秀実(後にソ連のスパイとしてゾルゲ事件で逮捕)ら共産主義者に首相官邸内で支那事変続行の世論形成のための論文執筆活動をさせた。

 彼は共産主義者である風見章内閣書記官長と共に支那事変拡大を扇動する声明を出し、陸軍と世論を煽った。

 さらに日独伊三国軍事同盟を締結、南部仏印進駐を強行。これにより米英蘭は対日石油全面禁輸という制裁を行なった。事ここに至り日米戦争は避けられないところまで来た。そうしておいて昭和16年(1941年)10月彼は東條英機に首相のバトンを渡した。

 彼自身は共産主義者ではなかったが、日米戦争を起こそうとしていた点では共産主義者と思惑が一致していた。

 その後についてはまた次回に。

参考文献=林千勝『日米戦争を策謀したのは誰だ』

 

 

 

 

 

 

2022-01-03

毛沢東越え

新年明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。

習仲勲は1913年中国中部の陝西省に生まれ、10代で中国共産党に入党した。共産党の「長征」の最終目的地とされたのが陝西省であり、習らが共産党の根拠地を死守したこともあり、同省の延安が臨時首都とされた。

習は国務院副総理などの要職に就いた。

しかし1962年、反党的な小説の出版に関与した嫌疑により全ての要職を奪われ16年間投獄された。

さらにその後猛威をふるった文化大革命の嵐は息子の習近平にも及び、紅衛兵によって生家を破壊されただけでなく、反動学生として4回投獄された。さらに陝西省の寒村に「下放」され黄土を掘って作った洞窟に寝泊まりし、労働体験をさせられた。習の姉は餓死したと伝えられる。

これらは毛沢東が権力闘争の中で文化大革命という騒動を起こし、その影響をもろに受けてしまったことによるのであり、苦難の根源は毛沢東にあるのは明白である。

にもかかわらず習近平は毛沢東を偉大な指導者として国民に尊敬するよう強要し、毛の著作を読むよう奨励している。文化大革命を批判する言葉も歴史教科書から削除された。このあたりの習近平の心理は謎ですが、参考文献では虐待されてもなお親のもとにとどまりたい子供の心理かと推定しています。

さらに習近平は毛沢東さえやらなかった、チベット人、モンゴル人、ウイグル人という民族のアイデンティティーを完全に剥奪し漢民族に同化させるという暴挙に出ています。

参考文献=エドワード・ルトワック『ラストエンペラー習近平』

2021-12-09

宮廷ユダヤ人

ユダヤ人の高利貸しのイメージとしてはドストエフスキー『罪と罰』の金貸し老婆や『ベニスの商人』のシャイロックなどが有名ですが、ヨーロッパでユダヤ人が憎まれ迫害されたのにはさらに根本的な原因があることがわかってきました。

ロスチャイルド財閥の創業者マイヤー・アムシェル・ロスチャイルド(1743~1812)はフランクフルトのゲットー(ユダヤ人隔離居住区)で金貸し・両替商の家に生まれた。
17世紀からヨーロッパの大都市の王家の宮廷にはユダヤ人の金融業者や税金徴収人が出入りしていた。

そして宮廷ユダヤ人たちのたくらみが……

1 王に領土の拡大のため戦争することをそそのかし、資金を用立てる。王は宮廷ユダヤ人に借用証書を書くことになる。これが現在の国債。

2 王は借金の返済に苦しむ。そこで宮廷ユダヤ人はまたもささやく。「借金は返さなくてけっこうです。その代わり新しい税金の項目を作ってください。そしてその新税を国民から取り立てる権限を私にお与えください」 宮廷ユダヤ人は徴税請負人となった。

3 宮廷ユダヤ人の税金の取り立ては過酷であった。貧しい農家に押し入り隠している小麦や金品を無理矢理引きずり出し奪った。

このようにしてユダヤ人に対する憎悪がヨーロッパ各国の一般民衆にわき起こり蓄積された。

参考文献=副島隆彦『世界覇権の大きな真実』

 

2021-11-15

岸和田といえば

孫のお宮参りのため岸和田の岸城神社に行ったので、近くの岸和田城庭園を見学する機会に恵まれました。

この庭は昭和28年、当時57歳の重森三玲が設計・施工監督したもので、すぐ隣の天守閣から見下ろされることを想定して地割りの意匠がなされています。私は足首を負傷しており、天守閣には登らず庭の外周園路から鑑賞したのですが、気付いたことを挙げてみたいと思います。

庭は「八陣の庭」と名付けられており8箇所に石組が施工されています。中心の大将石組は天守閣に、他の石組はそれぞれ園路に石組の正面を向けている。真正面から見、一歩二歩少し位置をずらすと石の重なりも異なり石の表情も違ってくる。そこを観察し作者の意図を考え、また自分なりに良さを発見できることもある。そのようなことが枯山水庭園の魅力であるわけですが、この庭の場合庭の反対側の石組や隣の石組がわりと目に入ってしまい、一組の石組に集中しにくい。またこの庭は高さを高・中・低の三段にしているとされているが、段差が約30cmとかなり低いためあまり高低差が感じられない。そのためだだっ広い敷地に幾何学的地割りと石組が散らばっているだけに見えてしまう。そこがもったいない。

ここはひとつ中心の大将石組をうんと高く据えるため全体を小山にして、各石組を目隠しの低木で囲うかしてそれぞれの石組に没頭できるようになれば、もっと鑑賞がしやすいのにと思いました。

そうは言っても天守閣からの画像によると白川砂には砂紋が付けられており、ということは海または川の景色ということになる。天守閣からの眺望を優先するあまり、肝心な石組鑑賞がしにくくなってしまったか。

その後岸城神社に向かい、七五三の参拝客でにぎわう中に、今話題のあの人の散髪前の髪型「ロン毛ポニーテール」を見つけたりもしつつ、参拝者が皆、日本文化に敬意と愛着を抱いているのを感じ、私自身も久々に日本文化に触れられて新たな勇気を貰いました。

 

2021-11-08

連邦準備制度とは

FRBの成立過程を見ていきたいと思います。
1      1776年アメリカは独立を宣言するも独立戦争は7年続き、1783年イギリスとの和平が成立した。そしてロンドンの金融家(ロスチャイルドなど)はアメリカを金融で支配するために動き出す。彼らの大きな目的はアメリカに中央銀行を設立することであった。

2       1791年合衆国第一銀行が設立される。アメリカ憲法では通貨発行の権限は連邦議会が持つと規定されているにもかかわらず、この銀行が通貨発行権を持ち、さらにアメリカ連邦政府は株式の20%しか持たず、80%はロスチャイルドらロンドンの金融家が持っていた。

3       1811年、設立から20年の更新の時期を迎え、議会での議論の末、更新は否決された。

4       その後英米戦争が起こり、インフレに対処するため、1816年合衆国第二銀行が設立された。

5       さらに20年後の1836年、ジャクソン大統領は更新の認可を拒否、大統領暗殺未遂事件が起きる。以後中央銀行不在が続いた。

6       1865年南北戦争に勝利した直後、リンカーン大統領は暗殺される。この暗殺の原因として、リンカーンがロスチャイルドら銀行家からの融資を断り、アメリカ財務省の法定通貨を発行したためではないかと言われています。

7       1910年、アメリカ南部ジョージア州沖のジキル島で6人の大物銀行家らが秘密会合を行い、次なる中央銀行案を練った。出席者のドイツ系ユダヤ人ポール・ウォーバーグは中央銀行を想像させるような名称を回避することを主張した。

8       1913年12月23日、議員の多くがクリスマス休暇で不在の中、ほとんど審議されることなく連邦準備法は成立した。

連邦準備制度により、アメリカ政府は通貨を必要とする時は国債を発行して連邦準備銀行に買ってもらう。連邦準備銀行はドルを印刷して支払う。しかしアメリカ政府は国債の利子を連邦準備銀行に支払わなければならない。アメリカ政府は自分の国の通貨を印刷するのに利子を払わなければならないということになった。

連邦準備銀行の株主である国際銀行家はなにも負担することなく、濡れ手に粟の大儲けができる仕組みになっている。

参考文献=馬渕睦夫『国難の正体』

写真=姫路市灘南緑道木場地区の教訓立札

 

 

 

 

 

2021-10-09

歴史は勝者によって作られる(世界史編)

前回までで見ましたように、蒋介石を裏で操り日中戦争を長引かせ、アメリカの参戦を実現させ、最終的に中華人民共和国を樹立した中国共産党と、ナチスと共謀してポーランド・バルト三国に侵攻しながら米英側についてヤルタ会談で領土拡大と東欧の衛星国化を認めさせたソ連。この二者が日中戦争・第二次世界大戦の最大の勝者であると考えられる。
他方、敗者となったナチスドイツ・ヒトラーは20世紀最悪の独裁者との評価を得、これはまず変わることはない。
歴史は勝者によって作られると言われるが、信長・秀吉を踏み越えて勝者となった家康が「神君」として崇められるように、毛沢東・スターリンもその権威は未だ維持されているように見える。
しかし毛沢東の「大躍進政策」により2000万人とも言われる人が餓死した。またスターリンは「カチンの森」事件でボーランド人を虐殺したことが冷戦終結後明らかとなった。これらのことはあまり一般には知られていないように思われます。
そしてここでかつての英国首相ディズレーリの言葉から勇気と力をもらいたいと思います。「時間は貴重である。しかしそれ以上に貴重なのは真実を知ることである」。そして先日ノーベル物理学賞を受賞された真鍋淑郎氏の言われる「好奇心」を原動力としたいものです

2021-09-12

大祖国戦争

第二次世界大戦前後のソ連の動きを注視すると、第二次大戦を日独伊のファシズム陣営と米英ソの民主主義陣営との戦いと見る固定観念では理解できない歴史の真実があるかもしれません。
1 1939年5月 ノモンハン事件勃発
満州とソ連の国境をめぐる紛争で、最新装備を持つソ連軍の前に日本軍は大敗。しかしこの事件を機にスターリンは、日独に挟まれるニ正面作戦を避ける必要に迫られた。
2 1939年8月23日 独ソ不可侵条約締結
これによりソ連はニ正面作戦を回避できる体制ができた。しかしこの条約では独ソによるポーランド分割、ソ連によるバルト三国併合が秘密議定書で定められていた。
3 1939年9月1日 ドイツのポーランド侵攻
4 1939年9月17日 ソ連のポーランド侵攻
ソ連はさらに11月にフィンランドに侵攻、12月に国際連盟から除名される。
1940年にはバルト三国も併合。
5 1941年4月13日 日ソ中立条約締結
将来の独ソ戦に備えて手を打ったと考えられる。
6 1941年6月22日 独ソ戦勃発
ドイツは石油確保のため、ソ連のバクー油田を狙ったといわれる。
7 1941年12月8日 日本が真珠湾攻撃
ちょうどこの頃ソ連侵攻中のドイツ軍はモスクワの手前40kmのところで戦車のエンジンオイルが凍りつき、ドイツ軍は停止。スターリンは日ソ中立条約を結んでいたこともあり日ソ戦はないと判断、シベリアにいた部隊をモスクワ防衛に回し、ドイツ軍を押し返した。

8 1942年~43年 ソ連はスターリングラードの戦いに勝利

ドイツ軍はバクー油田に向かって進軍したが、ソ連軍は途中のスターリングラードを防衛、勝利した。

9 1945年2月 ヤルタ会談

ヤルタ密約で、

ソ連はドイツ降伏後3ヶ月以内に対日参戦すること

ソ連は日露戦争で日本に奪われた南樺太、旅順・大連の利権、満州における鉄道利権を得ること

ソ連は全千島列島を併合すること

が決められた。

10 1945年5月 ベルリン陥落、ドイツ降伏

11 1945年8月9日 ソ連は日ソ中立条約を破棄、満州・朝鮮・南樺太・千島列島に侵攻

12  満州に残された日本人、日本兵は帰国を許されず、70万人がシベリアに抑留され強制収容所に送られた。そこでは強制労働に従事させられたばかりでなく思想教育がなされた。「君らは日本帝国主義の犠牲者であり、戦争を起こした元凶は軍部、財閥、そして天皇である。祖国に戻った際には帝国主義を打倒し社会主義を実現しよう」。

スターリンはナチスドイツに勝利しソ連の領土を拡大した英雄、という評価は今も根強い。

 

参考文献=茂木誠『戦争と平和の世界史』

画像=醍醐寺三宝院(2018年撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

2021-08-29

西安事件

1931年9月18日に起こった満州事変は1933年5月の停戦協定によって終結し、列車の相互乗り入れや郵便事業の展開もなされ、日中関係は安定していた。
蒋介石は日本よりも中国共産党の殲滅に力を入れ、劣勢に陥った共産党は「長征」と称する退却を余儀なくされ延安に落ち着いた。
追い詰められた共産党ー毛沢東にとっては、蒋介石を日本との戦争に専念させ、二者を共倒れさせることが生き残るための必須条件であった。
1936年12月国民党の東北軍司令官張学良が西安で蒋介石を拉致監禁する事件が起きた(西安事件)。
父親の張作霖を関東軍に殺されたと信じていた張学良にとって、憎いのは共産党ではなく日本であった。そこに毛沢東とソ連・コミンテルンがつけ込み、蒋介石監禁の計画を立て張学良を扇動したと考えられる。
蒋介石は、共産党と共に日本と戦争する、と約束させられて釈放されたが、その後国民政府内の実質的な権力を失った。
この第二次国共合作によりその後の日本の不拡大・和平方針はことごとく蒋介石に拒否された。蒋介石のバックにいるのは毛沢東・コミンテルン、上海サッスーン財閥等英国企業の利益を擁護するイギリスなどであった。
2001年張学良はハワイで百歳の天寿を全うし、中国国家主席江沢民は弔電の中で張学良を「偉大な愛国者、中華民族の永遠の功臣」と讃えた。張学良が蒋介石を裏切って西安で監禁してくれたからこそ、抗日統一戦線が成立し共産党勝利の道が拓けたのだから。

 

前回参考文献=茂木誠『「戦争と平和」の世界史』

今回参考文献=馬渕睦夫『アメリカの社会主義者が日米戦争を仕組んだ』

画像=弊社のクロマツ等

2021-08-17

デラノ家と宋美齢

まず以前の投稿で誤りがありましたので訂正します。「パレスティナ」よりも「パレスチナ」の方が一般的なようですし、「インディペンデンス・デイ」が正しい。またポーツマス条約の結果、日本は樺太の南半分の併合、遼東半島の旅順・大連の租借権、南満州鉄道の租借権を得、韓国における日本の優越感を認められている。これが後に韓国併合につながるように思います。

さて8月15日NHKテレビ『開戦秘史』では蒋介石の日記を中心に日米開戦に至る過程を検証されていました。

蒋介石の思惑としては、中国国民党だけで日本に勝つのは無理、そこで大国の介入、つまりはアメリカの介入を招き、日本をアメリカと戦争させ中国に最終的に勝利をもたらしたいというものです。

番組の中で蒋介石の妻宋美齢が全米各地を回り中国への支援を取り付ける広告搭の役割を果たした映像が流された。宋美齢が車中で談笑する相手はアメリカ大統領F・D・ルーズベルト。

ところで、ルーズベルトのミドルネーム「デラノ」は母方の姓であり、デラノ家は清とのアヘン貿易で利益を得ていたラッセル商会の取締役であった。ラッセル商会はアヘン売買を取り仕切るチャイニーズマフィア哥老会と結び付いていた。哥老会は孫文の革命運動を支援し、孫文・蒋介石とのコネクションを持っていた。

ラッセル商会は国際都市上海に拠点を置き、中国人の浙江財閥を配下におさめていた。浙江財閥は中国の農村部からの大量の労働者を劣悪な労働条件で働かせた。

その浙江財閥の宋家の次女宋慶齢は孫文に嫁ぎ、三女の宋美齢は蒋介石の妻となった。

F・D・ルーズベルトと宋美齢との「奇縁」。

2021-08-01

ジョン・フォン・ノイマン

1945年春、ノイマンはロスアラモス国立研究所からプリンストンの自宅に戻り12時間眠り続け、目を覚ますと妻に打ち明けた。
「今我々が造っているのは怪物で、それは歴史を変える力を持っている。科学者は科学的に可能なことはやり遂げなければならない。それがどんなに恐ろしいことだとしてもだ」
アメリカは原子爆弾の完成を急いでいた。なぜならドイツも原爆の研究に着手していたから。
1939年9月「核分裂のメカニズム」論が科学誌に掲載されると、10月にドイツ陸軍省は「原子爆弾開発計画」を決定。

1940年12月ドイツは原子炉を完成させた。

1942年6月ドイツ軍に呼ばれた科学者ハイゼンベルクは、通常の100万倍の威力を持つ爆弾を2年以内に開発できること、大都市を破壊するのに必要な原爆の大きさはパイナップル1個分であることを答弁した。

しかしその後ドイツの原子炉は制御不能となって大爆発を起こし、さらにノルウェーの重水タンクが破壊され、原子炉の制御に必要な重水の供給が不可能となり、ドイツの原爆開発は暗礁に乗り上げた。

アメリカが原子炉を完成させたのは1942年12月、ドイツより2年遅れていた。

ノイマンをはじめとするハンガリーのブダペストのギムナジウム出身のユダヤ系科学者たちは、ナチスのユダヤ人迫害政策が激化するヨーロッパからアメリカに逃れてきた。彼らは自分たちを受け入れてくれたアメリカのため、戦争を早期に終わらせるため、非人道的な兵器(そもそも兵器は非人道的ですが)の開発に邁進した。

似た状況が第一次大戦時にもあった。

第一次大戦で毒ガスを開発したフリッツ・ハーバーはユダヤ人であるがプロテスタントに改宗しドイツ軍に志願した。彼の妻は毒ガス使用に反対し拳銃自殺した。しかし彼はさらに毒性の強いガスを開発した。1933年ナチスはユダヤ人であるハーバーを公職から追放した。彼の開発した毒ガスはユダヤ人強制収容所で使用された。ハーバーもまた戦争を早期に終わらせるため、人命を救うため毒ガスを開発した。

参考文献=高橋昌一郎『フォン・ノイマンの哲学』