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第一次世界大戦に至る道
第二次世界大戦はナチスドイツのポーランド侵攻に始まった。ナチス台頭の遠因は第一次世界大戦でのドイツに対する巨額の賠償請求を含む戦後処理にあった。第一次世界大戦のきっかけはオーストリアの皇太子夫妻がセルビア人に狙撃されたことであり、最初はオーストリア、ドイツとセルビア、ロシアの戦争であったが列強が加わり大戦争になった。
この第一次大戦のオーストリアとロシアの衝突の前段階としてクリミア戦争でのオーストリアとロシアの対立があった。
クリミア戦争は1853年、当時衰退化していたオスマントルコからバルカン半島の支配権を奪おうとロシアが仕掛けた戦争であった。そこに英、仏が介入しバルカン地域の覇権を巡る戦争となった。オーストリアは1815年のロシア、プロイセンとの同盟を破棄して英仏側に参戦した。ロシアは敗北し、オーストリアに怨念を抱いた。このことが第一次大戦の伏線としてあった。
クリミア戦争によっていわゆるウィーン体制が崩壊した。ウィーン体制はナポレオン戦争後のウィーン会議で決定した、列強の勢力均衡によるヨーロッパの協調体制であった。ウィーン会議で敗戦国フランスを戦勝国と対等な地位に引き上げたのがフランスのタレーランであった。
タレーランはナポレオン帝政において外相を務めていたが、当時からナポレオンはいずれ大失敗するであろうと予想していてナポレオン失脚後の政治体制について構想を練っていた。
そして「正統主義」を原則として、ブルボン家は正統な王家であり、王権簒奪者である革命派とナポレオンはヨーロッパの平和に対する加害者である。よって被害者であるブルボン家は革命前のフランスの領土と権力を回復する正当な権利を持つ、という理屈を戦勝諸国に呑ませてしまった。
こうして1814年5月ナポレオン戦争終結のためのパリ条約においてフランスは革命前の領土をすべて回復することができたのであった。第一次世界大戦開戦の100年前のことです。
参考文献 伊藤貫『歴史に残る外交三賢人』
写真は通宝寺池(姫路市夢前町)
グローバル化
昨年、大航海時代以後のイギリスの歴史を中心に投稿し、そのためにイギリスや植民地について勉強したお陰で少しだけ成長しました。
グローバル化の進んだ現代、世界について知ることは、世界の中の日本、その日本の中の造園を考える際にもヒントになるかも知れません。やや無理矢理の感はありますが、大きな視点からとらえたいという思いから今年も世界史の勉強を継続したいと考えています。
1870年代から第一次世界大戦が始まる1914年までは「第1次グローバル化」の時代と呼ばれます。蒸気船、鉄道、電信などの輸送通信技術の発達により、ヒト・モノ・カネが国境を越えて活発に移動し、世界経済の一体化が始まった。
グローバル化の結果として経済格差が拡大し、新興国に有利に働きドイツが急成長した。ドイツのGDPは1910年にはイギリスを抜いた。
現代の状況との類似点がいくつも見られます。格差の拡大、移民への敵対視、新興国の急成長、ナショナリズムを煽るポピュリズム政治家など。
参考文献『世界史としての第一次世界大戦』
写真は神鍋溶岩流
ニシンの塩漬け
キリスト教では復活祭の前40日間は肉を食べることを禁止していた。ヨーロッパで肉の代わりとされたのがバルト海のハンザ都市リューベック(ドイツ)の特産品「ニシンの塩漬け」であった。
しかしニシンは気紛れでバルト海に来ないこともあった。そのとき常時多数の漁船を北海に派遣し流し網で大量にニシンを獲り船上で塩漬けニシンの樽詰を量産して売ったのが、オランダ商人であった。「アムステルダムはニシンの骨でできている」と言われた。
冬の北海での漁業は船を激しく損傷させ、そのため安価に船を造る造船業が発達し、17世紀オランダはヨーロッパ第一の海運国となった。
またオランダ人は荒れる北海でのニシン漁で優れた操船技術を身につけ、「吠える40度」と呼ばれる偏西風を利用してジャワ島(インドネシア)へと至る航路を開拓した。
オランダ人はジャワ島のバタヴィアに拠点を築いて東インド諸島の香辛料貿易を独占した。そしてバタヴィア、マカオ、長崎(出島)の三角貿易を確立した。
参考文献 宮崎正勝『商業から読み解く「新」世界史』
写真は武蔵の里(美作市)
闘牛
先日ドラマ「刑事コロンボ」を見ていると闘牛士の話だったのでスペインが舞台かと思ったら、メキシコだった。そういえばメキシコはスペインに征服されスペイン文化が移されたようです。このドラマが制作された1970年代の時点でも言葉を始めスペインの影響は色濃いように思いました。
メキシコにあったアステカ帝国は1521年コンキスタドールのコルテスに征服され、スペインのものとなった。さらに1532年ペルーのインカ帝国もピサロによって滅ぼされた。さらにボリビアのポトシ銀山の発見によりスペインは巨万の富を得た。スペインは「太陽の没することなき帝国」と言われた。
スペインはアメリカ大陸の大部分を領土として主張し、他のヨーロッパ諸国は羨望の眼差しで見つめた。そして彼らなりのやり方で対抗した。それはスペインから財宝を奪うという方法だった。なかでもオランダとイギリスの私掠船と海賊船はスペインにとって大きな脅威であった。
エリザベス一世はスペインに強い敵対心を持ち、当時スペインと戦争中ではなかったがフランシス・ドレイクに略奪を命じ、ドレイクは南アメリカのスペイン領の都市やスペイン船を襲い多くの財宝を英国にもたらした。エリザベス一世はドレイクにナイトの爵位を授けた。
以前「パイレーツ・オブ・カリビアン」でとりあげたヘンリー・モーガンもナイト爵位を得、英国で英雄的な存在であった。当時の国王チャールズ二世は快楽主義者で「愉快な君主」と呼ばれたが、精力的で酒好きの下品なモーガンを好んだ。
参考文献 ドリン『海賊の栄枯盛衰』
写真は神鍋溶岩流
アイルランド系
1500年代半ばから1700年代半ばまでの200年間、「小氷期」という寒冷な気候が続き、デンマークからスウェーデンまで160kmにわたって海面が凍り歩行できたこともあった。農作物は生育が遅れ、収穫できないこともあった。食糧不足から暴動が繰り返された。
アンデスからヨーロッパにもたらされたジャガイモはヨーロッパの飢えた貧困層にとって救済そのものであった。ジャガイモによってもっとも人口を増やしたのはジャガイモが小麦に代わって主食となったアイルランドであった。1600年代初めに150万人だった人口は200年後800万人にまで激増した。
ペルーの20kmほど沖合いにあるチンチャ諸島、そこは海鳥たちの集団繁殖地となっていて、島は厚さ50mもある鳥糞石(グアノ)すなわち鳥の糞が堆積して固まったものに覆われていた。アンデスの先住民はグアノが素晴らしい肥料になることを知っていて地力の落ちた土地にグアノを入れ養分を補った。1830年代グアノがヨーロッパの港に陸揚げされるようになった。グアノの使用は近代農業のモデルとなり食糧の大量生産を可能にしヨーロッパの増加する人口を支えた。
そしてこのグアノ貿易の際にある微生物がヨーロッパにわたったと考えられている。この微生物はジャガイモに寄生しジャガイモ疫病を引き起こした。ジャガイモの葉が枯れ芋が収穫できなくなり、200万人が亡くなったがその半数がアイルランド人だった。
アイルランドの人口は1841年に817万人であったが1901年には446万人。60年間に半数近くにまで減少した。飢饉発生以降10年間に100万人を上回る人がアイルランドを脱出し、その3分の2がアメリカをめざした。この大量移民のなかにジョン・F・ケネディーの曾祖父もいた。バイデン氏もアイルランド系。
参考文献 マン『1493』 井野瀬久美恵『大英帝国という経験』
写真は水松(播磨中央公園)
British museum
サー・ハンス・スローンはアイルランド出身の内科医で王立協会の会長を務めた博物学者でもあった。1687年に西インド諸島を訪れ動植物の標本を集めたことからコレクションを増やしていき、その内容は大量の書籍、写本、絵画、ネイティブアメリカンの民芸品など多岐にわたる。当時は啓蒙主義の時代であり、あらゆるものがコレクションの対象とされ、それを分類、命名、序列化して理解しようとする発想が知識人らの心を捉えた。
1742年に82歳で引退したスローンはコレクションの散逸を恐れて遺言書を作成し管財人に管理を託した。1753年にスローンが死亡すると管財人集団は遺言に従いコレクションの管理方針を明らかにした。
1. コレクションは完全に元の状態で永久保存されること(売却しない)。 2. 一般市民が自由に見学できること。
この方針に従いイギリス議会は特別立法を行い、大英博物館が創設された。
10月11日の読売新聞「ワールドビュー」によるとスローン卿の妻がジャマイカに砂糖農園を保有していてそこでの奴隷労働で得た富でスローンは文物を購入した、とする解説が掲示されているとのこと。
以前「ブリストル」で記述したコルストン像は、6月に例のblack lives matter運動の勢いにより、倒され首を膝で押さえつけられ転がされたあげくに、ブリストル湾に沈められた。但し市当局が引き揚げ、安全な場所に保管したらしい。
またコロンブスについてもその像は全米各地で破壊されているようです。コロンブスは先住民に対して大量虐殺を行ったとされている。
大英博物館は大英帝国の強大な国力を盾に世界中から集めた宝物も少なくない。多様性を尊重する今日の世界の状況において、これまでの白人中心の視点のみではない、異なった価値観を交えて歴史の実像に迫るとき不都合な事実も浮かび上がる。そこで大英博物館の意義は損なわれるのではなく、むしろ信頼は高まりより多くの人を引き付けるはず。そのように願いたい。
前回の参考文献はニーアル・ファーガソン『大英帝国の歴史』著者はスコットランド出身ながら大英帝国の不都合な事実も避けず書かれていると思います。今回の参考文献は井野瀬久美『大英帝国という経験』
写真は安間家史料館庭園(丹波篠山市)
パイレーツ・オブ・カリビアン
1670年代、イングランド王室はジャマイカのポートロイヤルの港を防御するため城壁を構築した。王室はジャマイカで生産される砂糖にかけた関税からかなりの歳入を得ており、ジャマイカ島は極めて重要な経済上の拠点であったので、なんとしても守り抜かねばならない場所であった。
ポートロイヤルの城壁建設を取り仕切るヘンリー・モーガンはその後ポートロイヤル連隊長、海軍提督、海事裁判所長、さらにジャマイカ代理総督になり、ナイトの称号まで得た。
しかし1663年12月ヘンリー・モーガンと仲間達はカリブ海の西ニカラグア湖の北にあったスペインの前哨基地に一斉射撃を仕掛け基地に壊滅的な被害を与えた。彼らの行ったことは破壊であり強奪であり要するに海賊行為であった。1668年モーガンはパナマのスペイン領有地ポルトベロに転成し莫大な量の略奪品を得た。
イングランド王室はモーガンの行為を罰するどころか私掠船としての許可を与え、むしろ積極的に後押ししたとも見える。イギリスの宿敵スペインに対する戦争をいわば肩代わりさせたとも考えられる。スペイン人はペルーとメキシコを征服し大量の銀を発見した。イギリス人はアメリカ大陸でなんの発見もできなかった。そこでスペイン人から奪い取るという海賊行為によって遠征費用を回収した。
写真は神鍋溶岩流
洲浜
今回、ご高齢の施主様から足腰が悪く庭の草引きができないので、草の生えにくい庭にして欲しいというご依頼をいただき、防草シートとマルチバーク、砂利を使った庭に改造しました。
既存の景石を利用して流れを造り、マルチバークと砂利の仕切りに鉄平石とピンコロを使い、伊勢ゴロタの洲浜を流れに突き出し大きく迂回する流れにしました。
立石の前のモミジは移植を試みたが石と近すぎて無理で伐採しかないと思いましたが、施主様のそのままにとの意向によりそのまま流れに取り入れました。
流れの奥には庵治のゴロタ石、その次に青い玉石、その手前に淡路砂利を敷きました。砂利とマルチバークを敷くと色鮮やかな印象に変わりました。
コロン コロンボ コロンブス
ドミニカ共和国の首都サントドミンゴにそびえる、上空からは十字架に見える巨大モニュメント、コロンブス記念灯台。その建設計画は1852年、完成は1992年、140年を要した。その間コロンブスへの評価は一変し、英雄的な探検家、アメリカ大陸に神の言葉をもたらした伝道師から、たまたまアメリカ大陸にたどり着いた、帝国主義の代理人、アメリカ大陸先住民に甚大な被害をもたらした男と認識されるに至った。
1451年イタリアで生まれクリストファロコロンボと命名されたが、1483年スペインに渡りクリストバルコロンと名乗る。卑しい出自を恥じていて、強い野心と篤い信仰心を持っていた。そして自分が中国への航路を発見しスペイン王室に中国との貿易を始めさせれば莫大な富がスペイン王室にもたらされると考えた。
コロンブスはヨーロッパから西へ西へと進めば中国に到達するはずだと考え、上陸したアメリカ大陸をアジアの一部と考えた。コロンブスの航海に乗り気でなかったスペイン王室もコロンブスが第一回航海から帰還し黄金の装身具やオウム、10人の先住民奴隷を連れているのを見ると状況は一変し、嬉々として半年後第二回航海へ送り出した。
コロンブスは現ドミニカ共和国のエスパニョーラ島にラ、イサベラという基地を建設した。しかし水と食糧は尽き先住民との小競り合いが絶えなかった。二年後第三回航海で訪れた時はラ、イサベラは原型をとどめておらず上陸もしなかった。しかし実はそこには途方もない激変が始まっていた。コロンブスの遠征隊と一緒にニューギニア原産のサトウキビ、中東原産の小麦、アフリカ原産のバナナとコーヒー、牛、羊、馬を持ち込んだ。そしてこれは1516年にスペイン人入植者が持ち込んだものだが、アフリカ産のバナナの一種。これにアフリカカイガラムシがついており、エスパニョーラ島在来の蟻、アカカミアリは糖分を含んだカイガラムシの排泄物を好んだ。こうしてアカカミアリが大発生し、果樹も人間も襲われた。そしてコロンブス到着以前のアメリカ大陸には存在しなかった伝染病、天然痘やインフルエンザ、はしか、結核などが先住民の命を奪った。数十万いたと思われるタイノ族は絶滅した。
さらにコロンブス等は極度の飲料水不足に陥り川の水を飲み細菌性赤痢、さらに関節炎にかかったと考えられている。コロンブスは寝たきりになり激痛のため立つこともできず、54歳で亡くなった。
参考文献 マン『1493』
写真はあいあいパーク(宝塚市)
シルバー
1545年ボリビア南端の標高4000mのアンデス山中で幅90m奥行き4m深さ90mの銀の鉱脈が発見された。史上最大のポトシ銀山である。銀山発見によって町はにわか景気にわき立った。ひと山当てた鉱山労働者が湯水のように金を使い、ある通りの一本が銀の延べ棒で舗装された。
スペイン人は先住民を労働力として酷使した。労働環境は劣悪で非人道的であった。慢性的な水銀中毒になり多くの人命が奪われた。月曜日に20人の健康なインディオが坑道へ入れば土曜日にはその半数が身体にご招待を負って出てくる、と言われた。
銀の延べ棒の重さは36kg、これをリャマが一頭当たり3~4本運ぶ。2000頭のリャマ隊を1000人以上のインディオが警護しそのインディオを武装したスペイン人が監督した。
16世紀から18世紀の間にアメリカ大陸のスペイン植民地から15万トン以上の銀が産出され、「スペイン銀」は世界の貴金属の供給量を二倍以上に急増させた。
1564年スペイン人修道士であり航海士でもあったウルダネータはスペイン領メキシコを出港し西進して太平洋を横断、フィリピンに到達した。これにより中国との貿易への道を開いた。ウルダネータのもう一つの偉業はメキシコへの帰路を開拓したことであった。行きは西へ進めてくれた貿易風が帰りには邪魔になる。そこではるかに北上してから進路を東にとりメキシコに帰港した。ここにアメリカ大陸と中国を結ぶアジア航路が開通した。
以前の記事「サッスーン」で中国は税を銀で支払うため銀の流出に伴う銀の高騰に苦しんだと書きましたが、ではなぜ銀を貨幣としたのか。中国の貨幣に関しては、宋、元の時代に紙幣の大量発行によるハイパーインフレが起きており、明の初代皇帝洪武帝は銅貨の鋳造を命じた。しかし国内の銅山は枯渇状態で銅貨の鋳造費が銅貨の流通価格より高くついた。よって銅貨は流通せず紙幣に頼った。そしてまたしてもインフレが起きた。また皇帝が代わる度に前皇帝の硬貨を無効としたため全財産の雲散霧消という混乱も起きた。このため商人は銀を取引に使用するようになった。そして明王朝も銀の使用を認め、中国は大量の銀を必要とした。アジア航路の発見により銀が欲しい中国と絹、陶磁器を入手したいスペインの思惑が合致した。
参考文献 チャールズ C マン『1493』
写真は神鍋溶岩流 俵滝