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ブログ

2020-07-26

ロイヤルミルクティー

イギリスではなぜコーヒーより紅茶が好まれたか?

茶、コーヒー、ココアは17世紀半ばにイギリスに入ってきた。

17世紀後半、ピューリタン革命から名誉革命に至る時期、飲酒を厳しく糾弾するピューリタンのイデオロギーが待ち望んだ理想の飲み物がコーヒーであった。コーヒーは理性を目覚めさせ知性の活動を活発にする。コーヒーは精神の高揚と覚醒を促す理想の飲み物と考えられた。コーヒーハウスに集い情報交換や政治談義に花を咲かす中で市民意識が高まり、コーヒーは近代市民社会の到来を象徴する飲料となった。

しかし当時の「市民」概念に女性は入っておらず、コーヒーハウスに女性は立ち入りを禁じられていた。

1717年トマストワイニングはイギリス初のティーハウス「ゴールデンライオンズ」をオープンさせた。ティーガーデンとも呼ばれたこの飲茶空間は、理性を重視した殺風景なコーヒーハウスとは異なりインテリアに凝ったおしゃれな雰囲気で女性客の間で大評判となった。これ以後茶の消費量は爆発的に拡大し1730年代にはコーヒーの消費量を上回った。

1823年東インド会社軍少佐ロバートブルースはインド北東部のアッサムで自生する原種の茶を発見、その後弟のチャールズが十数年かけて栽培に成功し、アッサムで茶の生産が本格化した。その労働力としてベンガルの農民が移住させられ半奴隷状態に置かれた。

その後茶の価格は下がりインドやセイロン産の茶が大量に流通した。18世紀後半の産業革命期以後、紅茶は労働者階級の生活にも浸透し、それまでのスープや粥の朝食に代わり、砂糖とミルク入りの紅茶とパンが朝食の定番となった。

写真はプリンセスドゥモナコ(播磨中央公園)

2020-07-05

グラバー園

阿片はなぜ日本に蔓延しなかったか?

阿片戦争で清が敗北したニュースは日本にも伝わった。林則徐の親友魏源の『海国図志』などにより西洋の進んだ軍事や産業等の知識がもたらされた。日本は速やかに国防に着手し「異国船打払令」を取りやめて「薪水給与令」に改めた。

1853年6月アメリカのペリーが来た。ペリーはアメリカ東海岸のノーフォークを出発し大西洋を横断、アフリカ南端の喜望峰を巡り、インド洋を経て香港に停泊、ここで大艦隊を編成する予定であった。しかし戦艦が次々故障し結局用意できた艦船は四隻であった。当時まだ太平洋航路は開設されていなかった。後に「日米修好通商条約」を結ぶこととなるが、阿片の輸入は厳禁することと規定されていた。これはアメリカがピューリタンの理想主義から出発した国であることから阿片という毒薬で儲けるのは自己欺瞞であり自尊心を傷つけることであったためとも考えられる。

ではイギリスはなにをしていたか?阿片戦争に勝利したイギリスは堂々と阿片輸出を続け、イギリス議会は日本への艦隊派遣を決議した。しかし清での太平天国の乱への対応に追われさらにアロー号事件をきっかけに清との戦争を続けた。イギリスは日本に艦隊を派遣する余裕がなかった。

日本は清のように武力侵攻されることなく阿片を大量に押し付けられる事態も免れた。しかし開国すれば外国人の往来が増え阿片も入ってくるのは必定であった。

長崎の名所グラバー園で有名なクラバー商会は阿片貿易のジャーディンマセソン社の長崎代理店であったが、薩長同盟で有名な坂本龍馬はグラバー商会から銃を買い薩摩に売っていた。龍馬もあぶないところだったのではと思われます。

では日本はどうして国民を阿片から守れたのか?それにはさまざまな要因があるようです。

まず政府が阿片を専売制にして密輸を防いだこと。

阿片で骨抜きにされた清の惨状を知り軍事、文化、社会のすべてにおいて近代国家にならなければならない、そのためには阿片から国民を守ることが必須条件であったこと。

日本人の実直でよく働く国民性。

江戸時代から読み書きそろばんが普及していて教養が高いこと。

中国のように昼寝の習慣がないこと。

明治時代の日本は貧乏で食べるために必死で働き、阿片を買う金も時間もなかったこと。

幸運と努力の賜物でしょうか。

参考文献 譚ろ美 『阿片の中国史』

写真は摩訶耶寺庭園(静岡県)の築山三尊石組

2020-06-11

林則徐

その後林則徐が皇帝の全権を委任されて広州に赴き、今後アヘンを持ち込まないという誓約書の提出と在庫のアヘンすべてを差し出すよう求めた。アメリカは誓約書を提出しアヘン以外の貿易を続けたが、イギリスはアヘンの供出はしたが誓約書の提出は拒んだ。

林則徐は50m四方の人工池を掘らせそこに水、塩、アヘン、石灰を投入しアヘンを分解した後海に放出した。アヘンを焼くだけでは土に成分が残るという。

その後はイギリスの近代兵器の圧倒的な武力の前に清は降伏し南京条約を結ぶこととなる。

清の中華思想が招く外の世界への無関心が西洋の技術の進歩についての無知を招いた。ではアヘンを清に輸出したイギリスとはどのような国か?東インド会社とは?その辺について調べていきたいと思います。

写真は平城宮跡東院庭園(2015年11月撮影)

2020-06-01

黄爵滋

1836年許乃済(きょだいさい)がアヘン弛禁論を道光帝に上奏した。アヘンの輸入を禁じ吸食者に重刑を課しても一向に効果なく吸食者は増えるばかり。アヘンの代金は莫大な額になり不正役人の懐は賄賂で豊かになるばかり。そもそもアヘンを吸う者は遊情無志、取るに足らない輩である。官僚や兵丁、公共の職にある者がアヘンの悪習に染まれば法をもって直ちに免職とするのだから政体を傷つけることはない。いっそアヘンの輸入を認め税を課して夷商(外国商人)に納付させ、銀を使わず物々交換で交易させてはどうであろうか?

ところで皇帝に奏文を奉ることはよほどの勇気がなければできないことであった。皇帝の気に入らず左遷、免職あるいは死罪の可能性もあった。従って清においては政治的才能とはまず優れた文章を書けることであった。

2年後、アヘン厳禁論の決定版黄爵滋(こうしゃくじ)の奏文が上奏された。

海港を厳重に取り締まっても効果はない、清の沿岸は万余里の長きにわたりどこからでも船は入る。  通商を禁じてもアヘン船を外洋に浮かべ奸人が密輸する。  アヘン販売人を罰しようとしても官吏が賄賂を取り売人をかばう。  ではアヘンを禁止は不可能か?   アヘン販売が盛んであるのはアヘンを吸食する者がいるからに他ならない。吸食する者がいなくなれば、販売は行われす外夷のアヘンは自然に来なくなり、銀の流出も止められる。

今年の某月某日より来年の某月某日まで1年間を区切り、中毒患者にアヘン断絶の猶予期間を与える。1年後なおアヘンを吸食する者があれば重罰を課してもよいであろう。これまでアヘン吸食の罰は「枷」「杖」のみであったが、今後は死刑とする。紅毛人は自国でアヘンを吸食するものがあれば、衆人環視の前でその者を棹の上に縛り付け大砲で海に撃ち落とす。自国民には禁じておきながら密輸を容認するとは甚だ卑怯。紅毛人でさえアヘンを禁止できるのだからわが皇上雷霆の威、赫然震怒(かくぜんしんど)すればどんな愚頑な輩でもアヘンをやめるであろう。

道光帝はこの奏文に心を動かされ写しを各総督、巡撫、将軍に送り意見を求めた。

写真は旧徳島城表御殿庭園(千秋閣庭園)(2016年7月撮影)

2020-05-28

サッスーン

茶は16世紀の初めヨーロッパにもたらされ、はじめは薬として扱われたが、次第に喫茶の風習が広まり、イギリスでは19世紀になると“tea time”が習慣化し茶の需要は急増した。当時茶の供給源は中国にしかなく、イギリスは中国から茶葉を輸入しなければならなかったが、適当な見返りの輸出品がなく、輸入超過であった。

ユダヤ商人デビッド-サッスーンはバグダッド(イラク)で活動していたがインドへ移住し1832年「サッスーン商会」を設立した。サッスーンはイギリスの東インド会社からアヘンの専売権を買い取り中国へのアヘン密売で莫大な利益を得、「アヘン王」と呼ばれた。サッスーンはイギリス向けの紅茶の総元締めでもあった。

アヘン密輸により今度は清国が輸入超過となり、その決済を銀により行うため清の銀がどんどん海外に流出した。ところで人民の税は銀の重量で表示されたが、実際に納めるのは銅銭であった。銀の海外流出により銀の価格が高騰し、人民にとっては実質的な大増税となった。

アヘンの流行と銀の流出に清は苦しんだ。

参考文献 陳舜臣『実録アヘン戦争』

写真は徳島城跡千秋閣庭園

2020-05-26

アウタルキー

中華思想とはどのようなものか、どのような結果をもたらすか?

清朝黄金期の最後、1793年乾隆帝80歳の時に英国から通商条約締結の交渉に来たマカートニーに与えた英国王あての勅諭。「わが天朝はおよそないものはないほど豊かであり、外国と通商して有無相通じる必要などもともとない。外国は茶葉、陶器、生糸などを求めて来航するのだから、天朝は慈悲の精神で交易に応じるにすぎない」

一方的に恩恵をほどこすのであり平等互恵という通商の根本精神はどこにもない。

1816年イギリスはアマーストを北京に派遣。清朝は嘉慶帝に向かって三跪九叩頭の礼をせよと要求、アマーストは拒絶した。

1834年ネーピアは書面を広州総督に渡そうとするも拒絶され、一切の貿易を停止すると宣言された。ネーピアは二隻の軍艦に砲撃させながら広州に侵入した。総督への書面は許されないので広州のイギリス商工会議所の会頭あての書面で伝えた。

「私は英国皇帝の名において総督と巡撫の宣言した暴虐不正な行為、権力濫用に抗議する。英国皇帝は大いなる君主であり、英国は清国よりも広くより力のある世界の領土を統治しており、行くところ制服せざるはない勇敢な軍隊を持っており、清国人が見たこともない120門の大砲を備えた大船を所有していることを宣言する」

中華思想に負けず劣らず英国流の中華思想。アヘン戦争が起こるのはこの6年後。

2020-05-06

日日是好日

現在のコロナ禍でこれまでの平穏な日常が破壊され精神的にも不安定な状態になりがちな時、この言葉に出会い、改めて前向きな心で地道な努力をすることの大切さを再認識しました。自分が正しいと信じる道を進んで行こうと。

庭に植えた十二単(ジュウニヒトエ)

冒頭写真はセキセイインコ

2020-04-11

元石橋

先月中頃より少し時間的な余裕ができたので、前から気になっていた弊社庭園の模様替えを思い切ってすることにしました。

まず気になっていた庭の問題点を挙げていきます。

1 施工前の庭では流れに大きめの尖った砕石を使っているのですが、石の間から草が生える、枯れ葉が石の隙間に入り込む、ホウキが使えない、等の問題があった。

2 流れを完全にせき止める形で石橋が掛けられており、流れとしてとらえにくいし、橋を乗り越えなければ奥に行けない不便さがあった。

3 流れの横に雪見灯籠があるが、流れを自然の景色としてとらえようとするとどうしても人工的な灯籠は邪魔にならざるを得ない。

4 流れの下流に石臼を埋めて睡蓮を植えているが、これも自然の景色としてとらえようとすると邪魔になる。ただ、流れがだだっ広いものとなるのを防ぐためのアクセントが欲しかったことは理解できる。

5 奥の立石についてはその高さ(3mと2.7m)といいその重量といいこれを触るのは危険過ぎるので、その施工技術の高いことを尊重しそのままとさせていただいた。しかし手前の石は前垂れの穏やかな表現に終始していると思われるので、少しメリハリのある石組にしたいと思った。

次に実際の施工に入りますが

まず石橋(500×500×3000)の移動は重量的に困難なので割って二個の景石にすることにしました。せり矢を使い比較的簡単に割れました。割った石は流れにせり出すような格好に据え付けました。

次に流れに使われていた砕石ですが、撤去して処分するとなると運搬が重労働だし処分費も掛かる。そこで再利用して奥の立石の前の急流の表現に使いました。

灯籠と石臼は撤去して資材置き場に納めました。

石橋の撤去によりどうしても流れがだだっ広く無表情になる危険があるので、前述のように元石橋を流れにせり出して据えたのですが、更に流れを複雑にするため島を配置することにしました。立石の前に据えられていた二石と橋添石の、合計三島。流れの中にさらに小さい流れが島の回りを巡り変化のある景色ができました。

右手護岸の足元には伊勢ゴロタ石の洲浜を設け、流れ自体はモルタルの上に青のゴロタ石となりました。ただ、残念なことに洲浜と流れの石の大きさが同じになってしまいました。

流れを石だけで埋めてしまわず下草を流れに入れたい、しかし石を隠してしまわないようにあくまで脇役でいてほしい、この様な思いがあったのでできるだけ背の低い和風の下草を選びました。といっても庭にあったものを移植しただけなのですが。シャガ、セキショウ、リュウノヒゲ、オニシダ、フイリヤブラン等。ちょうどシャガの花が咲いてくれています。

以前に飛石と飛石の間を小石で埋め、洲浜状の広場にしていたのが、今回の流れと相まってより洲浜らしい雰囲気が出たのは計算外のことでした。

その他、御影石の親子のカエルがいるのですが、子を背負ったカエルはどことなく愛らしくもあり、どう処理しようかまだ考え中です。

2020-03-23

周山城址訪問記

先月の京北町行きは出発時間が遅く慈眼寺のみの訪問に終わったので、今回は早く出発し周山城址を目指しました。しかし問題点並びに反省点が多々ありました。

1 姫路から亀岡まで372号線一本で行けるので京北町は亀岡の上だから、と軽くみていると、372号線から分かれてからがかなり遠く峠道が多い。結局片道3時間(途中休憩含む)かかり、現地での時間は4時間となった。昼食は鯖寿司を買って本丸跡でいただいた。

2 道の駅ウッディー京北の近くなんだから行けばわかるだろうと思っていると、登城口がわかりにくく迷った。

3 登山道は伐採された丸太に妨げられることなくなんとか登れたが、道幅が40センチくらいしかないところが多く、よそ見をして足を踏み外しでもすれば急斜面を滑落するしかない、危険きわまりない獣道。

4 本丸跡らしき所に着いたものの、平地に礎石が点在しているわけでもなく、起伏があり本丸が建っている状態を想像するのは難しい。石垣の上部が崩れ下部のみ残っているのか元々低い石積なのかその辺がわからない。

5 ウッディー京北でもらった周山城址のご案内にも、残っている石垣の位置は明記されていませんでしたが、急斜面をあちこち探しまわるのは危険なので結局わからなかったのは悔いの残るところです。帰りに和菓子店「亀屋廣清」に寄り話したところ「最初はそんなもんです」と言われました。

本丸跡の様子

冒頭写真は弊社庭園改修部分

2020-02-11

くろみつ

先日放送されたNHK『歴史秘話ヒストリア』の斎藤道三の回は新発見の史料もあり内容が濃かったと思いましたので、論点を整理して記述したいと思います。

斎藤道三はこれまで油売りから身を起こし一代で一国の主にまで登り詰めた下克上の代表のように言われてきたが、実は道三の父と道三の二代による下克上であった。

土岐頼芸と頼純が対立する中、娘の帰蝶を頼純に嫁がせ一年後に暗殺、さらに頼純の弟に嫁がせこれも切腹に追いやった。この辺りの手段を選ばぬ残忍さが蝮と呼ばれる所以か。

次に帰蝶を嫁がせた相手が織田信長であった。うつけとの噂を確かめるため対面してみるとうつけどころか並々ならぬ英傑であることを悟り、信長が今川に攻められた際には加勢し友好関係を築いた。

道三の革新的なやり方に家臣は先例がないことを理由に反発し保守的な息子の義龍を担いだ。道三の着物の紋は道三オリジナルの二頭立浪であるが、義龍の紋は伝統的な桐であった。

ところで京都京北の周山城址近くの慈眼寺に行ったのですが、墨で黒く塗られた明智光秀像を拝観できました。有名な肖像画とは全く正反対の印象のその異様な姿、特に強すぎる眼力が独特でした。くろみつ(黒い光秀?)大雄尊としてお祀りされています。