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ターナー
アフリカには1100年頃遊牧民のトゥアレグ族によって創られた都市ティンブクトゥがあった。ティンブクトゥはサハラ砂漠を横断する貿易を通して巨万の富を持つ都市となった。金、象牙、塩その他の貴重品がイスラム圏からティンブクトゥに持ち込まれた。ヨーロッパの探検家がこぞってアフリカ西海岸を訪れたのもティンブクトゥの莫大な富に刺激されたからであった。ティンブクトゥには司祭、判事、医師、学者の数が豊富であり高度な文明が繁栄していた。 ポルトガルは戦争捕虜を奴隷とするアフリカの風習に目をつけ、武器や酒その他のヨーロッパの品を奴隷と交換する取引を始めた。1650年頃にはオランダ、イギリス、フランスを始めヨーロッパの国々も増加し続ける新世界の奴隷需要にこたえるため西アフリカ諸国の奴隷所有者と貿易を始めた。 1781年9月リヴァプールを出航したゾング号は西アフリカ沿岸、ギニア湾沖で440人の奴隷を積み込み、ジャマイカに向かった。運航上のトラブルが重なりジャマイカに入港したのは12月、通常の航海の倍近い日数がかかった。 この間不衛生で狭い船内に詰め込まれ、ろくに食事も与えられなかった奴隷の中から多数の病人が出た。そして船長は病気や衰弱した奴隷132人を海中に投棄したのであった。他の積み荷(健康な奴隷)を救うため一部の積み荷(病気の奴隷)を海に捨てることは船長に許された権限であると船長は主張した。 船主は保険会社に対し投棄した奴隷132人分の補償を求めたが、保険会社は拒否し訴訟となった。ロンドンの裁判所は水不足や病気の蔓延で多数の奴隷に犠牲が出る前に一部の奴隷を捨てる行為は、同様の条件下で馬を投棄する行為と同じであるとして、奴隷投棄を航海中の事故による商品損失と見なし船主の請求を認めた。 これを不服とする保険会社は奴隷が病気になった理由は航海を長期化させた船長の操縦ミスにあったと反論し控訴した。 この事件は奴隷反対運動を加速させ、イギリス議会は奴隷を保険金の対象としてはならない、生きた奴隷を船外に投棄してはならない、という二つの法案を通過させた。イギリス絵画の巨匠ターナーはゾング号事件を題材に『死者や死にかけた者を捨てる奴隷商人ー嵐がやってくる』を描いた。 参考文献 サンドラー『大西洋の歴史』と井野瀬久美恵『大英帝国という経験』 写真は神鍋溶岩流 俵滝
ブリストル
17世紀後半カリブ海の島々(西インド諸島)でサトウキビの大量栽培がされるようになり、西インド諸島とイギリス、西アフリカの間の三角貿易が盛んになった。当時この貿易を独占していたのは王立アフリカ会社であった。
サトウキビは刈り取り直後に急速に甘味が落ちるため短時間のうちに原液を搾らなければならず、そのため集団労働を必要とした。最初にその労働力となったのは西インド諸島のインディオであった。しかしその後ヨーロッパ人が持ち込んだ病気や酷使のためインディオが絶滅に近い状態に陥ったため、イングランドの貧民やアイルランドの子供、流刑となった政治犯らが彼らに代わった。しかしそれにも限界があり、恒常的な労働力として注目されたのが西アフリカからの黒人奴隷であった。当時のアフリカのダホメー王国は奴隷貿易の仲介で栄えた国であり、毎年奴隷狩りを行いヨーロッパの商人に売り渡した。
イングランドのブリストルを出発した船には植民地向けの食糧や日用品、衣料などを満載、西アフリカに向かいそこでアフリカ人仲介商人に銃、ラム酒などを渡し黒人奴隷を船内に詰め込んだ。船は西インド諸島に向かいそこで奴隷を下ろし、砂糖、タバコ、ココア、木綿などを積み込みブリストルに帰還した。王立アフリカ会社の独占が廃止されてからはブリストルの商人が三角貿易の主役となった。18世紀後半蒸気船の発明により貿易船の大型化が進みブリストルのエイヴォン川の川幅がそれに対応できずリヴァプールに奴隷貿易の拠点の座を奪われた。
ブリストルの中心部に立つブロンズ像の主、エドワードコルストン。彼はブリストルの慈善家として有名で、町の幹線道路にコルストンアベニュー、建物にコルストンタワー、コルストンホール、さらにコルストン救貧院、コルストンガールズスクールなど彼の名のつくものにあふれている。その町の名士の像に1998年1月スプレー缶で落書きがされた。Slave Trader (奴隷商人)。潤沢な慈善資金の出所は やはり三角貿易。
参考文献 井野瀬久美恵 興亡の世界史 大英帝国という経験
写真はお菓子の里丹波 の遠景(2019年11月)
ロイヤルミルクティー
イギリスではなぜコーヒーより紅茶が好まれたか?
茶、コーヒー、ココアは17世紀半ばにイギリスに入ってきた。
17世紀後半、ピューリタン革命から名誉革命に至る時期、飲酒を厳しく糾弾するピューリタンのイデオロギーが待ち望んだ理想の飲み物がコーヒーであった。コーヒーは理性を目覚めさせ知性の活動を活発にする。コーヒーは精神の高揚と覚醒を促す理想の飲み物と考えられた。コーヒーハウスに集い情報交換や政治談義に花を咲かす中で市民意識が高まり、コーヒーは近代市民社会の到来を象徴する飲料となった。
しかし当時の「市民」概念に女性は入っておらず、コーヒーハウスに女性は立ち入りを禁じられていた。
1717年トマストワイニングはイギリス初のティーハウス「ゴールデンライオンズ」をオープンさせた。ティーガーデンとも呼ばれたこの飲茶空間は、理性を重視した殺風景なコーヒーハウスとは異なりインテリアに凝ったおしゃれな雰囲気で女性客の間で大評判となった。これ以後茶の消費量は爆発的に拡大し1730年代にはコーヒーの消費量を上回った。
1823年東インド会社軍少佐ロバートブルースはインド北東部のアッサムで自生する原種の茶を発見、その後弟のチャールズが十数年かけて栽培に成功し、アッサムで茶の生産が本格化した。その労働力としてベンガルの農民が移住させられ半奴隷状態に置かれた。
その後茶の価格は下がりインドやセイロン産の茶が大量に流通した。18世紀後半の産業革命期以後、紅茶は労働者階級の生活にも浸透し、それまでのスープや粥の朝食に代わり、砂糖とミルク入りの紅茶とパンが朝食の定番となった。
写真はプリンセスドゥモナコ(播磨中央公園)
グラバー園
阿片はなぜ日本に蔓延しなかったか?
阿片戦争で清が敗北したニュースは日本にも伝わった。林則徐の親友魏源の『海国図志』などにより西洋の進んだ軍事や産業等の知識がもたらされた。日本は速やかに国防に着手し「異国船打払令」を取りやめて「薪水給与令」に改めた。
1853年6月アメリカのペリーが来た。ペリーはアメリカ東海岸のノーフォークを出発し大西洋を横断、アフリカ南端の喜望峰を巡り、インド洋を経て香港に停泊、ここで大艦隊を編成する予定であった。しかし戦艦が次々故障し結局用意できた艦船は四隻であった。当時まだ太平洋航路は開設されていなかった。後に「日米修好通商条約」を結ぶこととなるが、阿片の輸入は厳禁することと規定されていた。これはアメリカがピューリタンの理想主義から出発した国であることから阿片という毒薬で儲けるのは自己欺瞞であり自尊心を傷つけることであったためとも考えられる。
ではイギリスはなにをしていたか?阿片戦争に勝利したイギリスは堂々と阿片輸出を続け、イギリス議会は日本への艦隊派遣を決議した。しかし清での太平天国の乱への対応に追われさらにアロー号事件をきっかけに清との戦争を続けた。イギリスは日本に艦隊を派遣する余裕がなかった。
日本は清のように武力侵攻されることなく阿片を大量に押し付けられる事態も免れた。しかし開国すれば外国人の往来が増え阿片も入ってくるのは必定であった。
長崎の名所グラバー園で有名なクラバー商会は阿片貿易のジャーディンマセソン社の長崎代理店であったが、薩長同盟で有名な坂本龍馬はグラバー商会から銃を買い薩摩に売っていた。龍馬もあぶないところだったのではと思われます。
では日本はどうして国民を阿片から守れたのか?それにはさまざまな要因があるようです。
まず政府が阿片を専売制にして密輸を防いだこと。
阿片で骨抜きにされた清の惨状を知り軍事、文化、社会のすべてにおいて近代国家にならなければならない、そのためには阿片から国民を守ることが必須条件であったこと。
日本人の実直でよく働く国民性。
江戸時代から読み書きそろばんが普及していて教養が高いこと。
中国のように昼寝の習慣がないこと。
明治時代の日本は貧乏で食べるために必死で働き、阿片を買う金も時間もなかったこと。
幸運と努力の賜物でしょうか。
参考文献 譚ろ美 『阿片の中国史』
写真は摩訶耶寺庭園(静岡県)の築山三尊石組
林則徐
その後林則徐が皇帝の全権を委任されて広州に赴き、今後アヘンを持ち込まないという誓約書の提出と在庫のアヘンすべてを差し出すよう求めた。アメリカは誓約書を提出しアヘン以外の貿易を続けたが、イギリスはアヘンの供出はしたが誓約書の提出は拒んだ。
林則徐は50m四方の人工池を掘らせそこに水、塩、アヘン、石灰を投入しアヘンを分解した後海に放出した。アヘンを焼くだけでは土に成分が残るという。
その後はイギリスの近代兵器の圧倒的な武力の前に清は降伏し南京条約を結ぶこととなる。
清の中華思想が招く外の世界への無関心が西洋の技術の進歩についての無知を招いた。ではアヘンを清に輸出したイギリスとはどのような国か?東インド会社とは?その辺について調べていきたいと思います。
写真は平城宮跡東院庭園(2015年11月撮影)
黄爵滋
1836年許乃済(きょだいさい)がアヘン弛禁論を道光帝に上奏した。アヘンの輸入を禁じ吸食者に重刑を課しても一向に効果なく吸食者は増えるばかり。アヘンの代金は莫大な額になり不正役人の懐は賄賂で豊かになるばかり。そもそもアヘンを吸う者は遊情無志、取るに足らない輩である。官僚や兵丁、公共の職にある者がアヘンの悪習に染まれば法をもって直ちに免職とするのだから政体を傷つけることはない。いっそアヘンの輸入を認め税を課して夷商(外国商人)に納付させ、銀を使わず物々交換で交易させてはどうであろうか?
ところで皇帝に奏文を奉ることはよほどの勇気がなければできないことであった。皇帝の気に入らず左遷、免職あるいは死罪の可能性もあった。従って清においては政治的才能とはまず優れた文章を書けることであった。
2年後、アヘン厳禁論の決定版黄爵滋(こうしゃくじ)の奏文が上奏された。
海港を厳重に取り締まっても効果はない、清の沿岸は万余里の長きにわたりどこからでも船は入る。 通商を禁じてもアヘン船を外洋に浮かべ奸人が密輸する。 アヘン販売人を罰しようとしても官吏が賄賂を取り売人をかばう。 ではアヘンを禁止は不可能か? アヘン販売が盛んであるのはアヘンを吸食する者がいるからに他ならない。吸食する者がいなくなれば、販売は行われす外夷のアヘンは自然に来なくなり、銀の流出も止められる。
今年の某月某日より来年の某月某日まで1年間を区切り、中毒患者にアヘン断絶の猶予期間を与える。1年後なおアヘンを吸食する者があれば重罰を課してもよいであろう。これまでアヘン吸食の罰は「枷」「杖」のみであったが、今後は死刑とする。紅毛人は自国でアヘンを吸食するものがあれば、衆人環視の前でその者を棹の上に縛り付け大砲で海に撃ち落とす。自国民には禁じておきながら密輸を容認するとは甚だ卑怯。紅毛人でさえアヘンを禁止できるのだからわが皇上雷霆の威、赫然震怒(かくぜんしんど)すればどんな愚頑な輩でもアヘンをやめるであろう。
道光帝はこの奏文に心を動かされ写しを各総督、巡撫、将軍に送り意見を求めた。
写真は旧徳島城表御殿庭園(千秋閣庭園)(2016年7月撮影)
サッスーン
茶は16世紀の初めヨーロッパにもたらされ、はじめは薬として扱われたが、次第に喫茶の風習が広まり、イギリスでは19世紀になると“tea time”が習慣化し茶の需要は急増した。当時茶の供給源は中国にしかなく、イギリスは中国から茶葉を輸入しなければならなかったが、適当な見返りの輸出品がなく、輸入超過であった。
ユダヤ商人デビッド-サッスーンはバグダッド(イラク)で活動していたがインドへ移住し1832年「サッスーン商会」を設立した。サッスーンはイギリスの東インド会社からアヘンの専売権を買い取り中国へのアヘン密売で莫大な利益を得、「アヘン王」と呼ばれた。サッスーンはイギリス向けの紅茶の総元締めでもあった。
アヘン密輸により今度は清国が輸入超過となり、その決済を銀により行うため清の銀がどんどん海外に流出した。ところで人民の税は銀の重量で表示されたが、実際に納めるのは銅銭であった。銀の海外流出により銀の価格が高騰し、人民にとっては実質的な大増税となった。
アヘンの流行と銀の流出に清は苦しんだ。
参考文献 陳舜臣『実録アヘン戦争』
写真は徳島城跡千秋閣庭園
アウタルキー
中華思想とはどのようなものか、どのような結果をもたらすか?
清朝黄金期の最後、1793年乾隆帝80歳の時に英国から通商条約締結の交渉に来たマカートニーに与えた英国王あての勅諭。「わが天朝はおよそないものはないほど豊かであり、外国と通商して有無相通じる必要などもともとない。外国は茶葉、陶器、生糸などを求めて来航するのだから、天朝は慈悲の精神で交易に応じるにすぎない」
一方的に恩恵をほどこすのであり平等互恵という通商の根本精神はどこにもない。
1816年イギリスはアマーストを北京に派遣。清朝は嘉慶帝に向かって三跪九叩頭の礼をせよと要求、アマーストは拒絶した。
1834年ネーピアは書面を広州総督に渡そうとするも拒絶され、一切の貿易を停止すると宣言された。ネーピアは二隻の軍艦に砲撃させながら広州に侵入した。総督への書面は許されないので広州のイギリス商工会議所の会頭あての書面で伝えた。
「私は英国皇帝の名において総督と巡撫の宣言した暴虐不正な行為、権力濫用に抗議する。英国皇帝は大いなる君主であり、英国は清国よりも広くより力のある世界の領土を統治しており、行くところ制服せざるはない勇敢な軍隊を持っており、清国人が見たこともない120門の大砲を備えた大船を所有していることを宣言する」
中華思想に負けず劣らず英国流の中華思想。アヘン戦争が起こるのはこの6年後。
日日是好日
現在のコロナ禍でこれまでの平穏な日常が破壊され精神的にも不安定な状態になりがちな時、この言葉に出会い、改めて前向きな心で地道な努力をすることの大切さを再認識しました。自分が正しいと信じる道を進んで行こうと。
庭に植えた十二単(ジュウニヒトエ)
冒頭写真はセキセイインコ
元石橋
先月中頃より少し時間的な余裕ができたので、前から気になっていた弊社庭園の模様替えを思い切ってすることにしました。
まず気になっていた庭の問題点を挙げていきます。
1 施工前の庭では流れに大きめの尖った砕石を使っているのですが、石の間から草が生える、枯れ葉が石の隙間に入り込む、ホウキが使えない、等の問題があった。
2 流れを完全にせき止める形で石橋が掛けられており、流れとしてとらえにくいし、橋を乗り越えなければ奥に行けない不便さがあった。
3 流れの横に雪見灯籠があるが、流れを自然の景色としてとらえようとするとどうしても人工的な灯籠は邪魔にならざるを得ない。
4 流れの下流に石臼を埋めて睡蓮を植えているが、これも自然の景色としてとらえようとすると邪魔になる。ただ、流れがだだっ広いものとなるのを防ぐためのアクセントが欲しかったことは理解できる。
5 奥の立石についてはその高さ(3mと2.7m)といいその重量といいこれを触るのは危険過ぎるので、その施工技術の高いことを尊重しそのままとさせていただいた。しかし手前の石は前垂れの穏やかな表現に終始していると思われるので、少しメリハリのある石組にしたいと思った。
次に実際の施工に入りますが
まず石橋(500×500×3000)の移動は重量的に困難なので割って二個の景石にすることにしました。せり矢を使い比較的簡単に割れました。割った石は流れにせり出すような格好に据え付けました。
次に流れに使われていた砕石ですが、撤去して処分するとなると運搬が重労働だし処分費も掛かる。そこで再利用して奥の立石の前の急流の表現に使いました。
灯籠と石臼は撤去して資材置き場に納めました。
石橋の撤去によりどうしても流れがだだっ広く無表情になる危険があるので、前述のように元石橋を流れにせり出して据えたのですが、更に流れを複雑にするため島を配置することにしました。立石の前に据えられていた二石と橋添石の、合計三島。流れの中にさらに小さい流れが島の回りを巡り変化のある景色ができました。
右手護岸の足元には伊勢ゴロタ石の洲浜を設け、流れ自体はモルタルの上に青のゴロタ石となりました。ただ、残念なことに洲浜と流れの石の大きさが同じになってしまいました。
流れを石だけで埋めてしまわず下草を流れに入れたい、しかし石を隠してしまわないようにあくまで脇役でいてほしい、この様な思いがあったのでできるだけ背の低い和風の下草を選びました。といっても庭にあったものを移植しただけなのですが。シャガ、セキショウ、リュウノヒゲ、オニシダ、フイリヤブラン等。ちょうどシャガの花が咲いてくれています。
以前に飛石と飛石の間を小石で埋め、洲浜状の広場にしていたのが、今回の流れと相まってより洲浜らしい雰囲気が出たのは計算外のことでした。
その他、御影石の親子のカエルがいるのですが、子を背負ったカエルはどことなく愛らしくもあり、どう処理しようかまだ考え中です。