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ブログ

2019-07-18

庭園点描 三宮フラワーロード

三宮東遊園地地下の駐車場から地上に出てフラワーロードを歩いていると、歩道の植樹帯に色とりどりの草花が植えられていて、都会の中で気持ちがほっとして大変心地いいと思えました。今更ながら植物のリラックス効果。なかにはこんなミニチュアガーデンもありました。

2019-07-01

A氏の実像に迫れる?

来年の大河ドラマ決定を承けて旧丹波国内の歴史資料館等が明智氏の講演会や展示等いろいろ企画が進んでいるようです。

亀岡市での講演会に行きましたが、なかなか実像を掴むのは至難の技のようです。

まず丹波は禅宗の勢力が強く浄土真宗、日蓮宗があまり普及しなかった。そのため寺内町が発達せず城下町のような都市が形成されなかった。

城下町が築かれたのは亀山、福知山を光秀が築城、城下町を整備した時まで待たざるを得ない。

次に光秀の人物像ですが、戦により傷を負った部下を気遣ったり 討死した者の供養に米を寄進したりと、大変きめこまやかな丁重な気の使いようがうかがえます。

それは信長に対しても同様で細心の注意を払っている。

柴田勝家や羽柴秀吉が遠方に配置されたのに比較しても格段に上位に位置付けされ側近中の側近といえます。

また八上城攻めの際光秀の母が磔にされたという伝承がありドラマのひとつの見所とされているがそれについては否定的な見方が多いようです。

亀岡、福知山についてはまだまだ知らないことばかりですがまた追々投稿します。

写真は谷性寺のアジサイです。

2019-06-17

庭園点描 六甲高山植物園

六甲高山植物園は植物学の権威、牧野富太郎博士の指導のもと昭和8年に開園した、大変歴史のある植物園です。

園内には滝や流れもあり起伏に富んだ地形を生かし庭園としてもなかなか面白い。縦横無尽にはりめぐらされた園路により植物観賞がしやすくされています。

平成20年にはスイスの高山植物園と姉妹提携しており、園内中央のロックガーデンは日本のエリアとスイスのアルプスをイメージしたエリアに分けられ、「エーデルワイス」という歌で有名なエーデルワイスが咲いていました。

エーデルワイスはドイツ語で「高貴な白」という意味らしいのですが、一見してその良さがすぐにはわからない大変地味な花でした。

「知床旅情」で有名なハマナス

2019-06-10

源頼家

といわれてもすぐにはピンと来ないかもですが、源頼朝の長男、鎌倉幕府第二代将軍です。この人は『吾妻鏡』ではわがまま勝手しほうだいで無能故に自滅したように書かれているが、その真偽は?

たとえばご恩と奉公という武士の契約の基礎である土地の裁判で、現地調査をせず図面の中央に線を引き、土地の広い狭いは運次第、異論あれば裁判禁止と暴言。

しかし他の史料でちゃんと現地調査したことがわかっている。

他にも頼家をおとしめる記述には事欠かないわけですが、むしろ京都の建仁寺の建立を支援したり臨済宗の高僧栄西を鎌倉に招いたりと評価すべきことも行っている。

歴史は勝者がつくるといわれますが勝者北条氏に都合よく書かれている。

先月近江八幡に行った際、「豊臣秀次」という名前の日本酒を見つけ、また運河「八幡堀」が秀次の時代に造られその後の近江商人活躍の基礎を作ったことから秀次が近江八幡発展の恩人という扱いをされているのを知り大変驚いたことがありましたが、歴史上の敗者が必ずしも無能とは限らない。

また先日丹波の亀岡に行った際は亀山城址近くの南郷公園に今年明智光秀像が建てられているのを発見。謀叛人という足かせはあるものの軍事に秀でるだけでなく文化人としての教養も兼ね備える人物として称えられている。毎年5月には光秀まつりも行われているそうです。

写真は松尾神社(東近江市)

2019-05-27

庭園点描 諸戸氏庭園

庭園に足を運び実際に感じたこと、とりわけ新しい発見や感動があったときはそれを伝えたいと思い、記事を書きます。

しかしなかなか発見も感動もない場合が多いのも事実。

そこで気がついた事をできるだけ書いていくようにしたいと思い庭園点描と題しました。

岐阜城に行った前日、桑名市の諸戸氏庭園に行きました。桑名と言えば、「その手は桑名の焼き蛤」で有名?な所ですが。

諸戸清六の経歴等は省略させていただきますが明治時代の豪商らしいです。

さてこの庭園で個人的に一番よかった所は青石を敷き詰めた築山園路です。これは他には見られない壮観です。

この庭独特な特徴としては庭の中央の池の周囲に、主たる建物の前を除いてぐるりと松が植えられていることです。このため園路から池を見る際松の枝越しに見ることになり、これを奥ゆかしいととるか観にくいととるかは難しいところとも言えますが。

教科書に載せられそうな模範的なあられこぼし

なかなか他にはない石畳

2019-05-01

信長公居館跡

岐阜城はかつて稲葉山城と呼ばれ難攻不落の城としてドラマでも描かれましたが、金華山(標高329m)の山頂にあり、ロープウェーで山頂駅まで登ってもそこから歩くのが大変。確かに難攻不落の城です。

さて山麓の信長居館発掘調査案内所で信長の居館の再現CG映像を拝見しましたが、各建築物を空中回廊で結んだ壮大な建築群となっていました。

山の斜面の岩盤を背景にした庭園もあるのですが、こちらも楼閣が建ち並んでいます。高さ35mの岩盤から流れ落ちる2本の滝(おそらく人工的に流した)と池、池に接近というより池に乗り出して建つ楼閣。

いわゆる日本庭園的に滝石組を組んで水を流すのではなく、天然の岩盤に水を流し池の護岸石組を基礎にして楼閣を建てた。

これは自然を再現してそれを観賞する庭園ではなく、岩盤という自然を利用しそこに人工的に建築物を建てる。いわば自らの意のままに自然をも操る、信長らしい強引かつ革新的な庭園のように感じました。

2019-04-19

池田光政

岡山後楽園は岡山藩主池田綱政が岡山郡代官津田永忠に命じて造らせた。

では津田永忠はどんな仕事をした人物か?

干拓による新田開発と水害対策のための治水工事、いわば土木工事の専門家のようです。

池田綱政は二代目藩主であり、初代は名君として知られる池田光政。

では池田光政はどのような政策を行なったのか?

光政も新田開発と治水事業、さらに閑谷学校を開き教育を充実させ、質素倹約を旨とした。従って庶民の奢侈を禁止した。

派手な祭礼を禁じ、元日、祭礼、祝宴以外での飲酒を禁止した。

この光政の質素倹約の方針は基本的には受け継がれたと思われます。なぜなら土木専門の家臣を後楽園作庭の責任者にして造園も兼務させた訳だから。

このため園内の流れは治水工事のように施工され、巨大な石を力付くで運んだのか。実用を兼ねた茶畑があるのか。 なんとなく納得。

2019-04-18

先憂後楽

久しぶりに庭園の記事を書きます。岡山後楽園に行ったので。

庭園の完成が元禄十三年(1700年)で典型的な大名庭園。

いわゆる大名庭園に共通して感じる事項を挙げていきます。

1.この庭には大立石と烏帽子石という高さ5m以上の巨石を何十かに分割し現場で元通りに組み立てた石があります。大きいままでは運搬できないので分割して運び現場で復元した。それは石工の技術のなせる技だと注釈されていました。

しかしそもそも人間は自分の身長を越える石を正確に観賞できるのか。そこが私は疑問に思います。

大名の権力を誇示する。それぐらいしか思い浮かばない。

2.園内の中央に位置する池に三つの島があり、いやでも一番の見所です。

しかし江戸時代の風潮か島を大石では囲わず、石は省略的にしかも低く伏せて使い、ぐったり疲れた脱力系石組。

3.日本庭園の流れというと大石や小石、いろいろな形の石を使い、流れに突き出たり引いたりのリズム感ある出入りの線が見て楽しいのに、ここでは四角に加工された石がただ直線に並んでいるだけ。  残念。

しかしそんな中、園内随一の築山石組が

2019-04-17

処世術の神

細川藤孝は初め足利義輝に仕え、義輝亡きあとは義輝の弟、後の義昭に仕え各地の大名を頼り流浪したが、信長という有力大名に出会い義昭は将軍になった。

義昭と信長が対立すると義昭の逆心を信長に密告し信長の家臣となった。

信長の家中においてはかつて自分の部下であった光秀の与力という立場であった。嫡男忠興の妻は光秀の娘玉であり光秀とは親戚関係でもあった。

本能寺の変に際しては光秀の再三の援軍要請を断り剃髪して隠居した。

その後天下を手中にした秀吉は藤孝に光秀の丹波を与え十一万石に加増した。このことから藤孝が秀吉に格別の貢献をしたことが推定される。

秀吉亡きあとは家康につき、関ヶ原では忠興は家康方として前線で石田三成と戦い、戦後豊前小倉藩三十九万九千石の大封を得た。

寛永九年忠興の子忠利は肥後熊本五十四万石に加増、移封された。

以後明治の廃藩置県まで細川家は藩主として存続した。

戦国乱世を生き抜いた世渡りの神。

2019-04-09

迅速すぎる「中国大返し」

秀吉と毛利が備中高松城で対峙中、毛利方が和睦条件の中で難色を示したのが高松城主清水宗治の切腹であった。毛利に味方した人物を死に追い込むことを毛利氏は嫌った。

安国寺恵瓊は天正10年6月4日水攻めで孤立した高松城に乗り込み清水宗治を説得して切腹させたが、これは毛利氏の承諾を得ずに恵瓊の一存で行なったことであった。

秀吉と恵瓊は共謀してすでに和睦の基本合意をしていてあるタイミングを計っていたとも言えます。恵瓊はそもそも毛利氏に滅ぼされた安芸武田氏の遺児であったし、翌年には秀吉の直臣となっている。つまりは毛利への忠誠心がなかったとも言えます。

そして秀吉も光秀同様、信長の長期政権構想(つまり信長の子孫に政権を引き継がせ長期織田政権を保つ)に不安を抱いており、いずれは近江長浜城を奪われ遠国に移封され、やがては明にまで派遣されることを予想し、それを覆す機会をうかがっていたであろうことが考えられます。

秀吉は、光秀と結びついた長宗我部元親と対立する三好康長に肩入れし、光秀を窮地に立たせ光秀がどう動くか注視していた。いわば光秀の決起を待っていた。

そして本能寺の変の報を聴くや一気に和睦を成立させ、有名な「中国大返し」の神業を成し遂げた。

参考文献は今回も明智氏の前掲書です。