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2021-03-01

Bismarck

先日ヒロシ氏のラトビアを旅する番組を見ていると「ニシンの塩漬け」が出てきてニシンの健在を知り少し嬉しくなりました。

さて第一次世界大戦に至る背景・要因として挙げられるのが、新興国ドイツの急成長です。当時の覇権国イギリスが綿織物工業を中心とする軽工業が主要産業であったのに対し、ドイツは重工業により急成長し、第一次大戦直前にはGDPでイギリスを抜いており、ヨーロッパのパワーバランスを崩しかけていた。

1815年のウィーン会議の結果、ドイツ地域は35の君主国と4つの自由都市から成るドイツ連邦とされた。そのドイツ諸国を統一し1871年ドイツ帝国をつくったのがビスマルクです。

1873年、訪欧中の日本の岩倉使節団はベルリンでビスマルク宰相と会談した。その席でビスマルクは「諸君は列強諸国と結んだ不平等条約の改定をめざしておられる。しかし列強は自国の利益になるときは国際法や条約を守るが、自国の利益にならないと判断すればたちまち法を無視して武力に訴える。それが国際社会の現実だ。諸君は条約のことばかり気にするより、富国強兵に集中して実力をつけることに専念した方がよい。実力をつけて独立を守る、そうしないと列強の植民地獲得競争の餌食になってしまう」と述べた。

この会談で大久保、伊藤らはビスマルクに心酔し「我、日本のビスマルクたらん」と決意した。

当時ビスマルクはデンマーク、オーストリア、フランスの三か国をたった7年で矢継ぎ早に屈服させドイツ帝国を創立するという歴史的な快挙から2年しか経っておらず、ドイツ外交成功の絶頂期であった。明治の元勲たちは「外交・軍事政策はビスマルクのように大胆かつ攻撃的にやるべし」と思い込んでしまった。

しかしビスマルクはすでに「果敢な武断主義者」から「慎重で避戦的な勢力均衡主義者」に移行中であった。ドイツ統一後のビスマルクはそれ以上の領土拡張や侵略戦争は一切望まなかった。

明治~昭和期の日本人はドイツ統一前の果敢で武断主義的なビスマルク外交に大いに関心を持ち、その戦略を模倣した。しかしドイツ統一後の慎重に熟慮されたバランスオブパワー戦略には関心を持たなかった。

参考文献=前々回と同じ

画像=世界の梅公園(たつの市)



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