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グラバー園
阿片はなぜ日本に蔓延しなかったか?
阿片戦争で清が敗北したニュースは日本にも伝わった。林則徐の親友魏源の『海国図志』などにより西洋の進んだ軍事や産業等の知識がもたらされた。日本は速やかに国防に着手し「異国船打払令」を取りやめて「薪水給与令」に改めた。
1853年6月アメリカのペリーが来た。ペリーはアメリカ東海岸のノーフォークを出発し大西洋を横断、アフリカ南端の喜望峰を巡り、インド洋を経て香港に停泊、ここで大艦隊を編成する予定であった。しかし戦艦が次々故障し結局用意できた艦船は四隻であった。当時まだ太平洋航路は開設されていなかった。後に「日米修好通商条約」を結ぶこととなるが、阿片の輸入は厳禁することと規定されていた。これはアメリカがピューリタンの理想主義から出発した国であることから阿片という毒薬で儲けるのは自己欺瞞であり自尊心を傷つけることであったためとも考えられる。
ではイギリスはなにをしていたか?阿片戦争に勝利したイギリスは堂々と阿片輸出を続け、イギリス議会は日本への艦隊派遣を決議した。しかし清での太平天国の乱への対応に追われさらにアロー号事件をきっかけに清との戦争を続けた。イギリスは日本に艦隊を派遣する余裕がなかった。
日本は清のように武力侵攻されることなく阿片を大量に押し付けられる事態も免れた。しかし開国すれば外国人の往来が増え阿片も入ってくるのは必定であった。
長崎の名所グラバー園で有名なクラバー商会は阿片貿易のジャーディンマセソン社の長崎代理店であったが、薩長同盟で有名な坂本龍馬はグラバー商会から銃を買い薩摩に売っていた。龍馬もあぶないところだったのではと思われます。
では日本はどうして国民を阿片から守れたのか?それにはさまざまな要因があるようです。
まず政府が阿片を専売制にして密輸を防いだこと。
阿片で骨抜きにされた清の惨状を知り軍事、文化、社会のすべてにおいて近代国家にならなければならない、そのためには阿片から国民を守ることが必須条件であったこと。
日本人の実直でよく働く国民性。
江戸時代から読み書きそろばんが普及していて教養が高いこと。
中国のように昼寝の習慣がないこと。
明治時代の日本は貧乏で食べるために必死で働き、阿片を買う金も時間もなかったこと。
幸運と努力の賜物でしょうか。
参考文献 譚ろ美 『阿片の中国史』
写真は摩訶耶寺庭園(静岡県)の築山三尊石組
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